砂手紙のなりゆきブログ

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チンギス・カン『蒼き狼』(井上靖その他)は誤解釈なのか

 1960年に作家・翻訳家・評論家で弁が立って喧嘩の強そうな大岡昇平は、井上靖の『蒼き狼』という、チンギス・カンの生涯を題材にした歴史小説を、こんなものは歴史小説ではない、と大罵倒して、井上靖の「これは創作(小説)だから」という自作弁明に対して以下のように書きました(『常識的文学論』、「成吉思汗の秘密」から)。

『この文章は昭和三十年代の歴史小説家が、どんなに非歴史的な粗雑な頭の持主だったかの記録として、後世に残るであろう。』(大岡昇平全集15巻P85)

 調子に乗ってるときの大岡昇平は、感情と事実に誠実で、鋭利な刀でばっさり、ではなく、大槌でぼこぼこと殴って適切に相手にダメージを与える明晰な文章がある種痛快です。

 井上靖蒼き狼』は、チンギス・カン大岡昇平の記述では「成吉思汗」)を、モンゴル民族の始祖伝説である「蒼狼」と関連づけいるんですが、その戦訓も含めて解釈が間違っている、とぶった切ります。
 素人でも考えられることは、たとえばこの2点。
・「蒼い狼」なんてものはいるのか
・狼は遊牧民、つまり家畜を育てて生活している民にとっては害獣ではないのか(飼いならされたイヌは益獣)。

 大岡昇平はまず冒頭の「孛児帖赤那(ボルテ・チノ)」、漢文では「蒼色狼」の「赤那(チノ)」を狼として、『元朝秘史』(那珂通世『成吉思汗実録』の通称)の中では冒頭以外に二箇所、「狼」に関する記述がある、としています。
・テムジン時代のチンギス・カンが異母弟を殺したのを母親が怒る言葉。
「風雪に靠(よ)り頭口を害(そこな)ふ狼の如く」
・ナイマンとの合戦の場面で、ナイマンの将がチンギス・カンの軍を見て言った言葉。
「多き羊を狼の追ひて圏(をり)に至るまで追ひて来るが如きは、これらはいかなる人かかく追ひ来る」

 この「頭口を害(そこな)ふ狼の如く」の「頭口」というのは「家畜」。
 それを、井上靖は「狼」を害獣としちゃうとチンギス・カンのシンボルとしてはまずいので、なんと「頭を害う山犬」にしている。「頭口」と「頭」とは違うし、狼を山犬にしてはさらにまずい。元のテキスト解釈としては、冬場に食べるものがなくなった狼が家畜を襲う、という遊牧民の敵ですね。

 さらに、井上靖は本来「狼」ではないものを狼としている部分がある、という大岡昇平の指摘。
・ナイマンとの先頭の場面、四人の武将の突撃を見て「ああ、四頭の狼が行く」(原文では「狗」)。
・同じく「ああ、走り廻っている。朝早く放たれた狼の子が、母の乳を吸って、その周囲を走り廻っているように」(原文では「馬」)。
 ヒトに忠実な家畜であるイヌであるから最初の例は意味があるし、朝早く放たれた狼の子、戦場で母の乳を吸う狼なんてナンセンスですね。

 ということで、あれこれあるんですが、一番驚いたのは以下のテキストの解釈です。

「叢(くさむら)の如き行きを行きて、海の如き立合を立合ひて、鑿(のみ)の如き戦ひを戦はん」
 那珂通世の訳註では「行軍に際して前後左右の偵察を厳重にし、展開しつつ戦場に現われるを言い、海の如き布陣とは、利を見なければ進まぬことを指し、鑿(のみ)の如き戦闘とは騎兵の突撃である」
 これを、井上靖はこう書いています。
「モンゴルの各部隊は喚声と共に草原の如く拡って行き、海の如く豊かな布陣をとげた。そして忽ちにして鑿の如き烈しい戦闘が開始された」
 このような描写を例にして、大岡昇平は以下のように言っています。
「結局、『蒼き狼』一篇が、一番よく似ているものは、『十戒』から『ベン・ハー』にいたるアメリカのスペクタクル映画である」

蒼き狼」とはそもそもなんであるか、について語る時間がなくなっちゃったけど、それはまた次の機会にでも。