砂手紙のなりゆきブログ

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物語がまたひとつできました

kakuyomu.jp

 その最後に書いたテキストと同じものを、また書いておきます。
     *
 これは、自分がほぼ完成させた5番目の物語で、『物語部員の生活とその意見』からはじまる県立西高校サーガ(仮)のひとつです。その物語群の中では、同じようなキャラクターが、すこしだけ異なる別々の世界で活躍します。
 だいたいの世代は、こんな感じで薄くつながっています。

最年長 遊久(緑の上履き)
1年下 千鳥紋、年野夜見、その他(赤)
1年下 立花備、清、朱音、その他(青) ※『物語部員の生活とその意見』『物語部員の嘘とその真実』
1年下 ナオとそのきょうだい(緑) ※『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』『物語部員の陰謀とその合理的な解決』
1年下 カオル、アキラ(赤)
1年下 ミトラ、トノ、ハチバン(青) ※『物語部員の愛とその遍歴』

 別にそれぞれの作品の関係は薄いので、どれから読んでも問題はありません。書かれた順に読みたいという人は『物語部員の生活とその意見』『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』以下は、タイトルでわかりやすくなるようにしてみました。「愛とその遍歴」「陰謀とその合理的な解決」「嘘とその真実」。つまり「あ」「い」「う」です。次は「栄光とその悲劇」になる予定です。
     *
 そしてこれは、2時間ぐらいで読める、2時間ぐらいの間に起きる事件に関する物語を書こうと思って書きました。つまり、この物語を読者が読む時間と、物語の中の時間とは同じという設定です。実際の時間と映画の中の時間が同じという映画は、探すとないことはない、程度にはあります。物語がテキストによって作られている場合は、読まれる時間の設定が難しい(個人差がある)のですが、かなり探せば多分あるはずです。
 どうしてそんな設定の縛りを立ててみたかというと、物語って基本的に何でもあり、なんで、それだと適当に書きすぎちゃうなあ、と考えてしまったからです。
 自分がライトノベルを読む場合、1時間に120ページぐらいなので、2時間では240ページぐらい、という感じになります。
 1ページの字組は42×17行というフォーマットで、改行なしの場合は714字ですが、それは詰まりすぎで、まあだいたい500字ぐらいの見当です。
 そのため毎日1000~2000字、ページ数にして2~4ページ、時間だと1~2分間の出来事を書きました。
 さらに細かい計算だと、「…」一字は24分の1秒で、映画のコマ数と同じという指定です(一部違っているところもある)。
 ところで実に不思議なことに、フィルム時代の映画の1分は1440コマで、これはライトノベルの文庫の2ページ分をびっしり文字で埋めたら1428字なので、コマ数と字数はほぼ同じになります。
 結局最後のほうは、いつものようにいろいろありすぎる話になってしまいました。
 いつもほどには暑くない夏に書きはじめて、いつもよりすこし寒い秋のさなかに完成することができました。

桜と死

 人が季節に秋を感じるより一足早く、桜の木の葉は色を変えて、だらだらと枯れ葉を落としはじめます。
 春の桜の花が、命の盛りに急な病気で入院してそのまま帰らなくなった人のように残酷に散るのに対し、秋の桜の葉は、長患いの老人で、じわじわと弱って天命のように散ります。
 病院に植えられた桜の木の花が散るころ、最後の春の暖かくなりかけた頃に病人は死に、秋の桜の木の葉がだらだらと散るころ、酷暑と長い残暑を乗り切った老人は息絶えます。
 桜の木の盛衰を見るたびに思うのは、あと何回そのような春と秋を見ることができるか、要するに死について真面目に考えなければならないな、ってことです。
 入院した若者は、春の彼岸に遺言を書き、いつ死ぬかわからない老人は、お盆に身辺整理をします。
 大事で恥ずかしいサイトのIDとパスワード、恥ずかしいだけの保存画像や昔のテキストは、生きているうちになんとかしないといけないのです。
 そうしてさらに考えることは、第二次大戦中の日本の、強いられた死に臨んだ若者たちのことです。彼らは若いときに死んでしまったので、戦後70余年経っても若者です。
 阿川弘之は、エッセイ「「あゝ同期の桜」に寄せる 第十四期海軍飛行予備学生遺稿集「あゝ同期の桜」を読んで」の中で、以下のようなことを書いています。阿川弘之全集第16巻P206

『立大出身の須賀芳宗(注:遺稿を残した者のひとり)が書き残してゐるやうに、昭和二十年の春の九州の桜は、ずゐぶん長い間美しく咲いてゐたらしい。そしてその桜の季節が、沖縄への特攻作戦のもつともたけなはであつた時期である。
 出て行く者は、みな飛行機や飛行服に桜の花をさしてもらつて出て行つたといふ。日本の歴史に、これほどいたましい桜の花ざかりはなかつたであらう。』

 大日本帝国の大義と、家族を守るために、日の丸と桜を背負って散っていった人たちの親族や友人も、もう今はいなくなりつつあります。兵士となった子供を持つ母親は、数年前に千鳥ケ淵の戦没者追悼式典から消えました。妻子を持つこともなく、若者として死んだ兵士の子供はいません。

変な一人称(変態王子と笑わない猫)

 アニメにもなったライトノベル変態王子と笑わない猫』は、猫像が邪悪な願いを(というか、願いを邪悪に解釈して)かなえる、貧乳の子ふたりがメインヒロインという、貧乳好きにはたまらない(自分がそうだとは言ってない)物語です。
 この物語のヒロインのひとり、偽装お嬢様の小豆梓は、今までに見た・読んだことのない一人称で自分のことを言っています。
 つまり、「こっち」。
 最初に、主人公と会う場面ではこんな感じ。

『こっちが呼んだら、夜中の二時でも、遠く旅行中でも、親の死に目でも、いつもいつでも駆けつけてくれるかしら? こっちのためにすべてのことをなげうって、盲目の羊のように付き従えるの?』

 でもって、主人公が「ぼくの大事なもの(注:もうひとりのヒロイン・筒隠月子の感情表現)を返せ!」って言うところでは、こんな感じ。

『それより、あなたはこっちのためになにができるのかしら……?』

 ただ、アニメの場合はこうなってました。

『あなたはわたしのためになにができるのかしら』

 誰も気がつかなかったのかなあ。
 そういうのは、原作者が気がつかなくても、アニメの制作進行が気づかないといけないんじゃないかと思った。
 ただですね。OPの歌詞はこうなっています。

『もう一回こっち向いて 言いたいことがもっとあるから』

 要するに、これは小豆梓の気持ちですね。作詞した人はわかってる。
 それからさらに、こんなフレーズもあります。

『私から誘う勇気を下さいと月に願うの』

 これは、妹の筒隠月子が好きでしょうがない姉で、陸上部の鋼鉄の王・筒隠つくしの気持ち。
 筒隠月子の一人称は「わたし」で、多分それはEDで語られる気持ちかな。でも「君」ってのが変だけど。

こわい話を一つ書いたのん

 それは日本で新しいホラー映画好きにとっては良質の、そうでない人にはそれなりのものが作られ、映画を見る人たちに支持されていた時代、20世紀末のことだった。
 ある映画監督とスタッフは、学校の怪談を題材にした映画を撮るために、とある田舎の、廃校になった学校を借りることになった。小学校と中学校を兼用しているその建物は、戦前からたびたびの改修がおこなわれながらも、建築当時の面影を残していた。平屋の、南面を向いた校舎はほとんど木造で、柱は昔の太い木が使われ、教室の窓枠や黒板も歴史を感じさせるものがあった。
 撮影許可が得られたのはその学校の、小学校としての最後の卒業生が出たあとのことである。卒業式と同時に閉校式がおこなわれ、新しく中学生になったその子も含めて3人の生徒は、近くの別の学校へ通うことになった。
 撮影は、桜の咲き始める頃からはじまり、葉桜になるまでの間に終わる予定だった。校舎はゴールデンウィーク前には業者が入って、郷土記念館として内部が作り直されたあと、さまざまな資料と共に利用されることになっていた。
 その校舎は以前、悪い噂があった。初夏のとあるひどい雨の日、家に帰れなくなった児童・生徒、そして先生を含む数名の者はそこで一夜を過ごしたのだが、一人が夜中、お手洗いに行く途中で行方不明になったのだ。
 その日は夜通し大雨が降り続き、風も吹き荒れ、校舎の屋根の一部は飛んできた折れた樹によって壊れた。河川は氾濫し、濁った水は高台にある学校のすぐ近くまで迫り、危うく全員が土砂に飲まれるところで、行方不明の子供の捜索も翌日、夜が明けてからということになったが、最後まで死体は見つからなかった。
 奇妙なことが起こりはじめたのはそのときからで、夜中に誰もいないはずの校舎から明かりや子供たちの笑い声が聞こえたり、夏の白昼、セミが鳴く校庭の、緑が深い木陰に、薄ぼんやりと白い服を着た女の子、つまり行方不明になった子が見えたり、学校の下駄箱から靴が、誰のいたずらでもないのに消えてたり、というようなことがしばしば起こった。
 笑い声をたどって校舎に行こうとした者は、途中で懐中電灯の電池が切れたり、同じ自動販売機の回りを何度も回ったりする。幽霊のようなその子を見た者は、頭痛や体調不良などに苦しむ。
 その子の霊を哀れに思ったのか、あるいはたたりを恐れたのか、事件のあった夜に折れた枝がある樹の根元には、子供たちや先生、近くの者などによって定期的に花が供えられていたが、映画関係者が行ったときには、その場所には萎れたレンゲの花輪が3つ置かれていただけだった。
 校舎での寝泊まりは、役場によって禁じられていたので、何も知らないスタッフの何人かはその樹の下にキャンピングカーやテントを張ったりして、朝早くから夜遅くまで、ときには真夜中すぎまで撮影が続けられた。学校の怪談という映画なので、むしろ夜中のほうが撮影が多かったぐらいで、役者やスタッフは寝不足で体調を崩したが、特に樹の下で泊まった組にそれが目立った。
 監督も、その校舎に伝わる話、怪談ではなく実際に起こったという話を、その土地の人間に聞いておけばよかったのだ。
 撮影は順調に進み、何日かの予備日を残して終了した。
 しかし、完成した未編集のフィルムを見て、監督と編集スタッフの顔色が変わった。夜中のトイレの場面、外側から教室を撮った場面、主役たちが会話しているいくつかのカットに、奇妙な影が写っている。それは決してカメラには写らず、人には知られてはならない薄ぼんやりとした灰色の影で、黙ってフィルムの奥からこちらを覗いている。
 それは……………………それは……………………。
     *
 それは、カメラマンが写り込んでいたカットだった。ガラスや鏡に反射してたのに、誰も気がつかなかったのだ。
 しょうがないのでスタッフは、泣いて編集をやりながらその場面を取り直した。途中で集中豪雨に会ったり、建物の改修をしている現場監督に怒鳴られたりして、映画の最終的な完成は、試写会当日の朝だった。
 あと、音声のない場面の恐怖とか、マイクの影が写っちゃった恐怖とか、劇場版とDVD版で音の調整を間違ってしまった恐怖とかもある。
 この学校(小学校)の最後の卒業生は、青い髪(公式には銀髪)をツインテールにしていて、語尾に「のん」ってつけて話す子です。
 豪雨じゃなくて吹雪のため学校に泊まるエピソードも、オリジナルにはちゃんとあるよ。

『七人の侍』の冒頭のシーンのテキスト化、1分で読めますか

 自分が今作っている物語では、七人の侍の冒頭、キャストや説明文が終わって実写部分になってから1分の場面を、以下のように語る登場人物が出てきます。

『空は低く、濃い灰色の雲が広がり、かすかなすきまから太陽が光っている。大地は黒く、背の低い草がまばらに生えている。その雲と大地の間の明るいところに、蹄の音を轟かせながら、駆け上るようにして、馬に乗った野武士の集団が姿をあらわす。蹄の音と集団は手前に近づき、先頭の馬に乗った人物が、やや下り気味に左から右へ動くと同時に、カメラはその人物を追ってフォロー・パンするが、すぐに後続の集団に追い越されて、カメラは特定の人物を追うことをやめる。大地の黒の中と馬の足・胴体が一体になり、闇色の霧のように弾みながら集団は進む。
 さまざまな黒い樹木を背景に、黒い野武士のひとりがやや上り気味に、ほぼ山道である丘を疾走する。その速さについていけないかのように、カメラはゆっくりとフォロー・パンをやめ、消えつつある雲と広がりつつある青空を背景に、後続の馬と野武士が写される。太陽の光を受けて輝く雲が強調される。
 丘を上る野武士の集団は果てしなく、馬の背に乗る者はさまざまな武具を身につけていることが影として示される。野武士は見ている者に不吉さを感じさせる自由と、誰かを傷つけずにはおかないほどの力に満ちている。
 その目的や、目指す場所は不明だが、野武士たちの馬の群れは横に長く広がり、蹄の音は重なり合って、一定のリズムで上下する人馬は、乗る者・見ている者のどちらにも何らかの楽しさを感じさせた。人が制御できる、楽しめる、多分そのぎりぎりの強さを馬は持っていた。やや遠くの木々はまばらであることを諦めたかのようにそびえ、太陽の光は強くなりつつありながら拡散している。夜明けだった。
 野武士は幅の広い、両側には雑木とも背の高い草とも思える道に出る。その場面では、人馬は手前から奥へ走るため野武士の背中が見え、今まで横向きに少し上から下へ、そしてまた上へ、さらに横長へと走る形で野武士を捉えていたカメラは、ここでまた別の意味を持つ。馬に乗って奥のほうへ走る集団を、固定したカメラで撮ると、違う広がりが見えるようになる。
 生い茂った草の間を、野武士は走る。草を通して漠然と、ゆっくりと動いていたカメラは、白い服をまとった二人の男が乗っている二頭の馬の動きに同調する。その男の馬は手前を走る馬に追いつき、軽々と追い越す。そのような動きをするカメラは、走る馬を見ている人間の目のように、あるいは競馬中継をしているカメラマンのように、不自然さを感じさせない。つまり、人の目の動きを研究し、意識したカメラワークになっている。ここでは、追い越した人馬をワイプで切るような感じで、一本の大きな木が手前に写り、その木が写る前の疾走感と、あれっ、追い越してるよね、と、カットが変わったように心理的に思わせる偶然が絶妙のタイミングで流れる。あまりにもうまいこといってるので、そこは映画的すぎる表現にも感じられる。
 前のカットがうまくいきすぎたのか、次の場面はオーソドックスなフェードでつながり、山の上の、村落が広がる見晴らしのよいところに、野武士と馬が背を見せながら集まる。背負う荷物や具足などの野武士らしい格好、めいめいが乗っている馬などはここではっきりと見える。
 馬はいななき、右側にいる兜をかぶって右目に眼帯をした男、つまり副頭目は左側の、頭目と思われる男に顔を向けるので、映画を見ている人間にもその顔がわかる。「やるかあ」「この村も」と、手にした槍のようなもので下を示して副頭目は言う。
 村の俯瞰では、いくつかの家から、かまどからと思われる煙が立ち、朝食の支度が進んでいると知れる。画面に写らない野武士たちは口々に、副頭目に同意する叫びのような声を上げる。平穏な村の風景は遠景の映像だけで示され、不穏な野武士の叫びは音声だけで示される。
 ここではじめて頭目の顔が写る。野武士としての経験を感じさせる、口ひげをはやした年配の男で、かつては歴戦の勇士・武将であっただろう。頭目は落ち着きがない馬の手綱を引きながら「待て待て」と一同に言う。「去年の秋、米をかっさらったばかりだ」と、ここで馬がヒヒーンといななく。「今行っても」で、馬とそれに乗る頭目が時計回りにぐるっと回る。これこれ、こういう場面が見たかったんですよ、と年野夜見は思う。「何もあるめえ」で、そこまで右上を向いて話していた、つまりカメラがやや下から撮っていた頭目が、右側を見て話す。わずかな角度の違いだけど、頭目の心理がわかる。命令と自制の気持ちの切り替えだ。』

 これは1844文字で、映画の冒頭2分38秒から3分38秒ぐらいまでを文章にしています。
 …でもこれ、1分じゃ読めないよね。普通に読めば2分ぐらいかかって、頑張れば1分30秒ぐらいで読めないこともない。
 この場面で黒澤明は10のカットを使ってるので、自分も10の段落で区切ってます。
 各段落の文章の長さは、各カットの長さにだいたい応じています。
 つまり最初のカットの、奥から出てくる野武士は12秒なので、288字ぐらいにする、みたいな(実際には256字ですが)。
 なんでこんなことをやってみたかというと、自分の文章の練習のためです。
 いや、しかし実に勉強になるわ、このやり方。
 こういう書きかたすると、自分がP.D.ジェイムズぐらいの作家になったような気になる。

 映画の中で、監督が意図的に作ったのは、頭目が馬を一回転してセリフを言うところとか、どういう風に走り抜けるか、とかそんなのだと思う。あと、日の出と雲の感じ。これ、天気待ちしたのかなあ。雲の感じがとても美しいです。
 だけど、馬が追い越すところにうまいこと木が立っててワイプっぽく見える、とか、一回転する際に馬がヒヒーンといななく、なんてのは、実に実写らしい偶然かもな、と思いました。

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1秒でだいたい人はどれくらいの字が読めるのか。

 自分はだいたい、ライトノベルは1分間で2ページぐらいの速度です。1冊読むのに150分、2時間半ぐらい。ライトノベル以外だとめっちゃ遅い、というかムラがあるのでうまくわからない。
 1ページを42×17行(これは電撃文庫の字組ですが、最近の文庫ではもっと少ないかもしれない)で計算すると、ベタに字が詰まっているとすると714字、2ページだと1428字になるんだけど、そんなことはめったにないので、まあ1ページ500字ぐらいかなあ。だったら60秒で1000字とすると。
 1秒で16字ぐらい?
 ところで、面白いことに気がつきました。
 映画って1秒間に24コマ、ということは1分間で1440コマ。これは電撃文庫の字組でびっしり文字を詰めたものとほぼ同じ。
 実は、現在作っている物語は、「2時間半で読める、2時間半に起こった事件」という、リアルタイム設定なんですよね。「更新時間」も、日付は違うけど実際に起こった出来事の時間と連動している。
 保存・執筆&メモ用のテキスト以外に「字数計算用」のテキストも作って、42字×34行を1分、という感じで作ってます。
 7日間かかって、やっと10分に相当する物語ができました。
 この調子だと、15週間、つまり105日、3か月半かかるんだけど、それはかかりすぎなので、どこかでスピードアップしないといけない。
 話の密度は濃いんだけど、今のところダラダラ、ひとつの部屋で無駄話をしているだけ。
 ちなみに、「…」は、ひとつを24分の1秒という設定にしてあります。

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やっと4つ目の物語ができたので、「解説者と分析者のためのあとがき」を掲載します

 毎日コツコツと、2か月半ほどかけて書いた物語が完成したので、そのあとがきをブログにも掲載します。
 興味を持たれるかたがいましたら、読んでいただけるとありがたいことです。

kakuyomu.jp これは自分が(ほぼ)完成させた4番めの物語で、テーマは永遠(に近いもの)と愛について、です。

 性同一性障害というのは自分の心と体の性が一致しない障害で、不真面目に扱うようなものではないのですが(真面目に扱っている小説があります)、自分の場合はそういうの読んで、なんか自分のことを「おれ」って言ってる女子っていいな、という感じで物語を作りました。延々と恋愛問題について悩ませる話にしようかとも思ったけど、どうもそういう方向ではうまく作る技術が自分には欠けている、ということでお許しください。

 物語の中で隠そうと努力したことは3つあります。登場人物のひとりと、主人公の五感の曖昧な欠如と再発見(たとえば、色彩とか音楽)、そして「彼」「彼女」という語を使わないことです。テキスト形式の物語だからそういうことやってみたんだけど、映像にするとそこらへんどうなるかはわからない。最後の件に関しては、どうもこの話はその代名詞を使うとうまく書けないな、というだけの理由です。

 なお、今回の物語の主人公は『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』の妹である直(なお)とはパラレルな関係にあります。したがって、この物語には名前は出てきませんが、母親の名前はサブレ、きょうだいの名前はユキ(トシユキ)って言います。また、ハチバンは『物語部員の愛とその遍歴』にワンシーンだけ、男子として出てきます。セイとアカネさんも、別の話に出てきます。なんかこのふたりは使い勝手がいいキャラなんですね。機会がありましたら他の物語もお楽しみください。

 今回も、話のヒントは手塚治虫から頂いた部分が多いです。視覚的イメージがないとうまくテキストが読めない、という人は、手塚治虫の絵をイメージして読むといいんじゃないかな。