砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

目で見ないとわからない落語(一目上がり)

 落語は戦後からビデオが普及するまでの間は、ラジオやレコードの聴覚芸術として楽しまれることが多く、目で見て面白い話はともかく、目で見ないとわからない話は残らないことになってしまいました。
 仕草で禅問答をするのが話のキモである「蒟蒻問答」は映像の容易な入手が可能な時代になって復活した例の代表的なものですが、なんとも困った代物なのが「一目上がり」という話です。
 要約しますと、これは正月のめでたい話で、大工の八五郎(八っつぁん)が横丁のご隠居の床の間にある掛け軸を見て「賛」という語を知り、「けっこうなサンで」と、他の人の掛け軸を褒めようとすると、それは「詩(シ)だ」「悟(ゴ)だ」と順に言われたので、あー、これは一目上がりで褒めるんだな、と思って、「けっこうなロクですね」と言ったら「いやこれは七福神だ」というのが一般的なオチです。でもってこれは別に、聴覚だけでもわかるんですよね。
 その話に出てくる掛け軸は、以下のようなものです。

 三代目三遊亭金馬の演目では以下のようになっています。
賛:
「しなわるるだけは答えよ雪の竹」
詩:
「近江(きんこう)の鷺は見がたく、遠樹(えんじゅ)の烏見易し」
悟:
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売り、汝五尺(ごしゃく)の身体を売って、一切衆生の煩悩をやすむ。柳は緑、花は紅(くれない)の色いろ香。池の面(おもて)に月は夜な夜な通えども水も濁さず影も止めず」

 別の掛け軸にしてある噺もあります。
賛:
「横にゆく蟹にも恥じよわが穴を たちかえりみる心なき身は」
詩:
「仁に遠き者は道に疎(うと)く 苦しまざる者は智に于(うと)し」(伝:富岡鉄斎
悟:
「遊ばんと欲す 遊びて足らず 楽しまんと欲す 楽しみて足らず 貪(むさぼ)らんと欲す 貪りて足らず」(沢庵禅師)

 で、こっちのほうの「詩」なんですけど、漢字で書いてあるんですよね。

『遠仁者疎途 不苦者于智』

 これはつまり、何と読むかというと、なんとなんと。

「おにはそと ふくはうち」!

 この落語をやる落語家は、掛け軸(みたいなもの)を持って、説明しながらやって欲しいものだ、と思いました。
 今回のネタ本は『マンガ落語大全 まずはここから』(高信太郎講談社、2003年)です。

ペンティメント(リリアン・ヘルマン)

『ペンティメント』はアメリカの女性作家リリアン・ヘルマンによる小説で、日本では『ジュリア』という映画公開に合わせて、映画と同じ邦題で1978年に翻訳されました(パシフィカ)。そのあと早川書房の文庫にもなってます。
 映画に言及する形で、映画評論家の山田宏一は、和田誠との対談『たかが映画じゃないか』(1978年)の中で、この語について以下のように、脚注引用の形で紹介しています。

『カンヴァスに描かれた絵の古い絵具が年月のたつうちに透明になってくることがある。すると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。女のドレスの下から樹が姿を現わし、子供の姿の向こうに犬が居り、一隻の大きな船が浮かんでいるのは、もはや大海原の上ではない。この現象はペンティメントと呼ばれる。描いた人間がもとの絵を「後悔」し、心変わりしたということである。言い換えれば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現わし、再び現われてくるものだと言えるかもしれない。』(リリアン・ヘルマン「ジュリア」中尾千鶴訳・パシフィカ)

 早川書房のほうは大石千鶴訳になっていますが、同じ人です。
 日本語にすると、逆・思い出補正?

こわい話を書くときの留意点

 新しい年(2018年)がはじまったので、ぼちぼちこのブログにもテキストを書くことにします。個人的なメモみたいな感じで、思いついたことを書くだけなので、思い出したら読んでみてください。
 2018年の目標として「短編小説をいろいろ読む」ということにしてみました。毎食前後に読むので、一日3つぐらい? 短い話かと思ったら、思った以上に長かったのでどうにもこうにも困ることもあります。「坑夫」(宮嶋資夫)とかね。
 短い話を読んでいると短い話が書きたくなるもので、そういうのを考えると、こわい話が一番作りやすいかな、とか思う。
 こわい話を書くときには、以下のことをやってはいけない、ということになります。

・主人公(語り手)が実は死んでいる、という話はだめ
・主人公と話している人間が実は死んでいる、という話はだめ
・オチがある話はだめ

 はじめのふたつはまあ、ありふれてるんで避けたい。実に素人というのは、こういう話を作りたがるもんなんですね。お前は都筑道夫じゃないだろ、と、自分で自分にツッコミ入れたくなる。
 最後のはどう言ったらいいんだろうな。こわい話というのはまあ、曖昧な結末なんですよ。よくできた話はオチがあって、困ったことにこわくない。

物語がまたひとつできました

kakuyomu.jp

 その最後に書いたテキストと同じものを、また書いておきます。
     *
 これは、自分がほぼ完成させた5番目の物語で、『物語部員の生活とその意見』からはじまる県立西高校サーガ(仮)のひとつです。その物語群の中では、同じようなキャラクターが、すこしだけ異なる別々の世界で活躍します。
 だいたいの世代は、こんな感じで薄くつながっています。

最年長 遊久(緑の上履き)
1年下 千鳥紋、年野夜見、その他(赤)
1年下 立花備、清、朱音、その他(青) ※『物語部員の生活とその意見』『物語部員の嘘とその真実』
1年下 ナオとそのきょうだい(緑) ※『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』『物語部員の陰謀とその合理的な解決』
1年下 カオル、アキラ(赤)
1年下 ミトラ、トノ、ハチバン(青) ※『物語部員の愛とその遍歴』

 別にそれぞれの作品の関係は薄いので、どれから読んでも問題はありません。書かれた順に読みたいという人は『物語部員の生活とその意見』『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』以下は、タイトルでわかりやすくなるようにしてみました。「愛とその遍歴」「陰謀とその合理的な解決」「嘘とその真実」。つまり「あ」「い」「う」です。次は「栄光とその悲劇」になる予定です。
     *
 そしてこれは、2時間ぐらいで読める、2時間ぐらいの間に起きる事件に関する物語を書こうと思って書きました。つまり、この物語を読者が読む時間と、物語の中の時間とは同じという設定です。実際の時間と映画の中の時間が同じという映画は、探すとないことはない、程度にはあります。物語がテキストによって作られている場合は、読まれる時間の設定が難しい(個人差がある)のですが、かなり探せば多分あるはずです。
 どうしてそんな設定の縛りを立ててみたかというと、物語って基本的に何でもあり、なんで、それだと適当に書きすぎちゃうなあ、と考えてしまったからです。
 自分がライトノベルを読む場合、1時間に120ページぐらいなので、2時間では240ページぐらい、という感じになります。
 1ページの字組は42×17行というフォーマットで、改行なしの場合は714字ですが、それは詰まりすぎで、まあだいたい500字ぐらいの見当です。
 そのため毎日1000~2000字、ページ数にして2~4ページ、時間だと1~2分間の出来事を書きました。
 さらに細かい計算だと、「…」一字は24分の1秒で、映画のコマ数と同じという指定です(一部違っているところもある)。
 ところで実に不思議なことに、フィルム時代の映画の1分は1440コマで、これはライトノベルの文庫の2ページ分をびっしり文字で埋めたら1428字なので、コマ数と字数はほぼ同じになります。
 結局最後のほうは、いつものようにいろいろありすぎる話になってしまいました。
 いつもほどには暑くない夏に書きはじめて、いつもよりすこし寒い秋のさなかに完成することができました。

桜と死

 人が季節に秋を感じるより一足早く、桜の木の葉は色を変えて、だらだらと枯れ葉を落としはじめます。
 春の桜の花が、命の盛りに急な病気で入院してそのまま帰らなくなった人のように残酷に散るのに対し、秋の桜の葉は、長患いの老人で、じわじわと弱って天命のように散ります。
 病院に植えられた桜の木の花が散るころ、最後の春の暖かくなりかけた頃に病人は死に、秋の桜の木の葉がだらだらと散るころ、酷暑と長い残暑を乗り切った老人は息絶えます。
 桜の木の盛衰を見るたびに思うのは、あと何回そのような春と秋を見ることができるか、要するに死について真面目に考えなければならないな、ってことです。
 入院した若者は、春の彼岸に遺言を書き、いつ死ぬかわからない老人は、お盆に身辺整理をします。
 大事で恥ずかしいサイトのIDとパスワード、恥ずかしいだけの保存画像や昔のテキストは、生きているうちになんとかしないといけないのです。
 そうしてさらに考えることは、第二次大戦中の日本の、強いられた死に臨んだ若者たちのことです。彼らは若いときに死んでしまったので、戦後70余年経っても若者です。
 阿川弘之は、エッセイ「「あゝ同期の桜」に寄せる 第十四期海軍飛行予備学生遺稿集「あゝ同期の桜」を読んで」の中で、以下のようなことを書いています。阿川弘之全集第16巻P206

『立大出身の須賀芳宗(注:遺稿を残した者のひとり)が書き残してゐるやうに、昭和二十年の春の九州の桜は、ずゐぶん長い間美しく咲いてゐたらしい。そしてその桜の季節が、沖縄への特攻作戦のもつともたけなはであつた時期である。
 出て行く者は、みな飛行機や飛行服に桜の花をさしてもらつて出て行つたといふ。日本の歴史に、これほどいたましい桜の花ざかりはなかつたであらう。』

 大日本帝国の大義と、家族を守るために、日の丸と桜を背負って散っていった人たちの親族や友人も、もう今はいなくなりつつあります。兵士となった子供を持つ母親は、数年前に千鳥ケ淵の戦没者追悼式典から消えました。妻子を持つこともなく、若者として死んだ兵士の子供はいません。

変な一人称(変態王子と笑わない猫)

 アニメにもなったライトノベル変態王子と笑わない猫』は、猫像が邪悪な願いを(というか、願いを邪悪に解釈して)かなえる、貧乳の子ふたりがメインヒロインという、貧乳好きにはたまらない(自分がそうだとは言ってない)物語です。
 この物語のヒロインのひとり、偽装お嬢様の小豆梓は、今までに見た・読んだことのない一人称で自分のことを言っています。
 つまり、「こっち」。
 最初に、主人公と会う場面ではこんな感じ。

『こっちが呼んだら、夜中の二時でも、遠く旅行中でも、親の死に目でも、いつもいつでも駆けつけてくれるかしら? こっちのためにすべてのことをなげうって、盲目の羊のように付き従えるの?』

 でもって、主人公が「ぼくの大事なもの(注:もうひとりのヒロイン・筒隠月子の感情表現)を返せ!」って言うところでは、こんな感じ。

『それより、あなたはこっちのためになにができるのかしら……?』

 ただ、アニメの場合はこうなってました。

『あなたはわたしのためになにができるのかしら』

 誰も気がつかなかったのかなあ。
 そういうのは、原作者が気がつかなくても、アニメの制作進行が気づかないといけないんじゃないかと思った。
 ただですね。OPの歌詞はこうなっています。

『もう一回こっち向いて 言いたいことがもっとあるから』

 要するに、これは小豆梓の気持ちですね。作詞した人はわかってる。
 それからさらに、こんなフレーズもあります。

『私から誘う勇気を下さいと月に願うの』

 これは、妹の筒隠月子が好きでしょうがない姉で、陸上部の鋼鉄の王・筒隠つくしの気持ち。
 筒隠月子の一人称は「わたし」で、多分それはEDで語られる気持ちかな。でも「君」ってのが変だけど。

こわい話を一つ書いたのん

 それは日本で新しいホラー映画好きにとっては良質の、そうでない人にはそれなりのものが作られ、映画を見る人たちに支持されていた時代、20世紀末のことだった。
 ある映画監督とスタッフは、学校の怪談を題材にした映画を撮るために、とある田舎の、廃校になった学校を借りることになった。小学校と中学校を兼用しているその建物は、戦前からたびたびの改修がおこなわれながらも、建築当時の面影を残していた。平屋の、南面を向いた校舎はほとんど木造で、柱は昔の太い木が使われ、教室の窓枠や黒板も歴史を感じさせるものがあった。
 撮影許可が得られたのはその学校の、小学校としての最後の卒業生が出たあとのことである。卒業式と同時に閉校式がおこなわれ、新しく中学生になったその子も含めて3人の生徒は、近くの別の学校へ通うことになった。
 撮影は、桜の咲き始める頃からはじまり、葉桜になるまでの間に終わる予定だった。校舎はゴールデンウィーク前には業者が入って、郷土記念館として内部が作り直されたあと、さまざまな資料と共に利用されることになっていた。
 その校舎は以前、悪い噂があった。初夏のとあるひどい雨の日、家に帰れなくなった児童・生徒、そして先生を含む数名の者はそこで一夜を過ごしたのだが、一人が夜中、お手洗いに行く途中で行方不明になったのだ。
 その日は夜通し大雨が降り続き、風も吹き荒れ、校舎の屋根の一部は飛んできた折れた樹によって壊れた。河川は氾濫し、濁った水は高台にある学校のすぐ近くまで迫り、危うく全員が土砂に飲まれるところで、行方不明の子供の捜索も翌日、夜が明けてからということになったが、最後まで死体は見つからなかった。
 奇妙なことが起こりはじめたのはそのときからで、夜中に誰もいないはずの校舎から明かりや子供たちの笑い声が聞こえたり、夏の白昼、セミが鳴く校庭の、緑が深い木陰に、薄ぼんやりと白い服を着た女の子、つまり行方不明になった子が見えたり、学校の下駄箱から靴が、誰のいたずらでもないのに消えてたり、というようなことがしばしば起こった。
 笑い声をたどって校舎に行こうとした者は、途中で懐中電灯の電池が切れたり、同じ自動販売機の回りを何度も回ったりする。幽霊のようなその子を見た者は、頭痛や体調不良などに苦しむ。
 その子の霊を哀れに思ったのか、あるいはたたりを恐れたのか、事件のあった夜に折れた枝がある樹の根元には、子供たちや先生、近くの者などによって定期的に花が供えられていたが、映画関係者が行ったときには、その場所には萎れたレンゲの花輪が3つ置かれていただけだった。
 校舎での寝泊まりは、役場によって禁じられていたので、何も知らないスタッフの何人かはその樹の下にキャンピングカーやテントを張ったりして、朝早くから夜遅くまで、ときには真夜中すぎまで撮影が続けられた。学校の怪談という映画なので、むしろ夜中のほうが撮影が多かったぐらいで、役者やスタッフは寝不足で体調を崩したが、特に樹の下で泊まった組にそれが目立った。
 監督も、その校舎に伝わる話、怪談ではなく実際に起こったという話を、その土地の人間に聞いておけばよかったのだ。
 撮影は順調に進み、何日かの予備日を残して終了した。
 しかし、完成した未編集のフィルムを見て、監督と編集スタッフの顔色が変わった。夜中のトイレの場面、外側から教室を撮った場面、主役たちが会話しているいくつかのカットに、奇妙な影が写っている。それは決してカメラには写らず、人には知られてはならない薄ぼんやりとした灰色の影で、黙ってフィルムの奥からこちらを覗いている。
 それは……………………それは……………………。
     *
 それは、カメラマンが写り込んでいたカットだった。ガラスや鏡に反射してたのに、誰も気がつかなかったのだ。
 しょうがないのでスタッフは、泣いて編集をやりながらその場面を取り直した。途中で集中豪雨に会ったり、建物の改修をしている現場監督に怒鳴られたりして、映画の最終的な完成は、試写会当日の朝だった。
 あと、音声のない場面の恐怖とか、マイクの影が写っちゃった恐怖とか、劇場版とDVD版で音の調整を間違ってしまった恐怖とかもある。
 この学校(小学校)の最後の卒業生は、青い髪(公式には銀髪)をツインテールにしていて、語尾に「のん」ってつけて話す子です。
 豪雨じゃなくて吹雪のため学校に泊まるエピソードも、オリジナルにはちゃんとあるよ。