砂手紙のなりゆきブログ

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『七人の侍』の冒頭のシーンのテキスト化、1分で読めますか

 自分が今作っている物語では、七人の侍の冒頭、キャストや説明文が終わって実写部分になってから1分の場面を、以下のように語る登場人物が出てきます。

『空は低く、濃い灰色の雲が広がり、かすかなすきまから太陽が光っている。大地は黒く、背の低い草がまばらに生えている。その雲と大地の間の明るいところに、蹄の音を轟かせながら、駆け上るようにして、馬に乗った野武士の集団が姿をあらわす。蹄の音と集団は手前に近づき、先頭の馬に乗った人物が、やや下り気味に左から右へ動くと同時に、カメラはその人物を追ってフォロー・パンするが、すぐに後続の集団に追い越されて、カメラは特定の人物を追うことをやめる。大地の黒の中と馬の足・胴体が一体になり、闇色の霧のように弾みながら集団は進む。
 さまざまな黒い樹木を背景に、黒い野武士のひとりがやや上り気味に、ほぼ山道である丘を疾走する。その速さについていけないかのように、カメラはゆっくりとフォロー・パンをやめ、消えつつある雲と広がりつつある青空を背景に、後続の馬と野武士が写される。太陽の光を受けて輝く雲が強調される。
 丘を上る野武士の集団は果てしなく、馬の背に乗る者はさまざまな武具を身につけていることが影として示される。野武士は見ている者に不吉さを感じさせる自由と、誰かを傷つけずにはおかないほどの力に満ちている。
 その目的や、目指す場所は不明だが、野武士たちの馬の群れは横に長く広がり、蹄の音は重なり合って、一定のリズムで上下する人馬は、乗る者・見ている者のどちらにも何らかの楽しさを感じさせた。人が制御できる、楽しめる、多分そのぎりぎりの強さを馬は持っていた。やや遠くの木々はまばらであることを諦めたかのようにそびえ、太陽の光は強くなりつつありながら拡散している。夜明けだった。
 野武士は幅の広い、両側には雑木とも背の高い草とも思える道に出る。その場面では、人馬は手前から奥へ走るため野武士の背中が見え、今まで横向きに少し上から下へ、そしてまた上へ、さらに横長へと走る形で野武士を捉えていたカメラは、ここでまた別の意味を持つ。馬に乗って奥のほうへ走る集団を、固定したカメラで撮ると、違う広がりが見えるようになる。
 生い茂った草の間を、野武士は走る。草を通して漠然と、ゆっくりと動いていたカメラは、白い服をまとった二人の男が乗っている二頭の馬の動きに同調する。その男の馬は手前を走る馬に追いつき、軽々と追い越す。そのような動きをするカメラは、走る馬を見ている人間の目のように、あるいは競馬中継をしているカメラマンのように、不自然さを感じさせない。つまり、人の目の動きを研究し、意識したカメラワークになっている。ここでは、追い越した人馬をワイプで切るような感じで、一本の大きな木が手前に写り、その木が写る前の疾走感と、あれっ、追い越してるよね、と、カットが変わったように心理的に思わせる偶然が絶妙のタイミングで流れる。あまりにもうまいこといってるので、そこは映画的すぎる表現にも感じられる。
 前のカットがうまくいきすぎたのか、次の場面はオーソドックスなフェードでつながり、山の上の、村落が広がる見晴らしのよいところに、野武士と馬が背を見せながら集まる。背負う荷物や具足などの野武士らしい格好、めいめいが乗っている馬などはここではっきりと見える。
 馬はいななき、右側にいる兜をかぶって右目に眼帯をした男、つまり副頭目は左側の、頭目と思われる男に顔を向けるので、映画を見ている人間にもその顔がわかる。「やるかあ」「この村も」と、手にした槍のようなもので下を示して副頭目は言う。
 村の俯瞰では、いくつかの家から、かまどからと思われる煙が立ち、朝食の支度が進んでいると知れる。画面に写らない野武士たちは口々に、副頭目に同意する叫びのような声を上げる。平穏な村の風景は遠景の映像だけで示され、不穏な野武士の叫びは音声だけで示される。
 ここではじめて頭目の顔が写る。野武士としての経験を感じさせる、口ひげをはやした年配の男で、かつては歴戦の勇士・武将であっただろう。頭目は落ち着きがない馬の手綱を引きながら「待て待て」と一同に言う。「去年の秋、米をかっさらったばかりだ」と、ここで馬がヒヒーンといななく。「今行っても」で、馬とそれに乗る頭目が時計回りにぐるっと回る。これこれ、こういう場面が見たかったんですよ、と年野夜見は思う。「何もあるめえ」で、そこまで右上を向いて話していた、つまりカメラがやや下から撮っていた頭目が、右側を見て話す。わずかな角度の違いだけど、頭目の心理がわかる。命令と自制の気持ちの切り替えだ。』

 これは1844文字で、映画の冒頭2分38秒から3分38秒ぐらいまでを文章にしています。
 …でもこれ、1分じゃ読めないよね。普通に読めば2分ぐらいかかって、頑張れば1分30秒ぐらいで読めないこともない。
 この場面で黒澤明は10のカットを使ってるので、自分も10の段落で区切ってます。
 各段落の文章の長さは、各カットの長さにだいたい応じています。
 つまり最初のカットの、奥から出てくる野武士は12秒なので、288字ぐらいにする、みたいな(実際には256字ですが)。
 なんでこんなことをやってみたかというと、自分の文章の練習のためです。
 いや、しかし実に勉強になるわ、このやり方。
 こういう書きかたすると、自分がP.D.ジェイムズぐらいの作家になったような気になる。

 映画の中で、監督が意図的に作ったのは、頭目が馬を一回転してセリフを言うところとか、どういう風に走り抜けるか、とかそんなのだと思う。あと、日の出と雲の感じ。これ、天気待ちしたのかなあ。雲の感じがとても美しいです。
 だけど、馬が追い越すところにうまいこと木が立っててワイプっぽく見える、とか、一回転する際に馬がヒヒーンといななく、なんてのは、実に実写らしい偶然かもな、と思いました。

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1秒でだいたい人はどれくらいの字が読めるのか。

 自分はだいたい、ライトノベルは1分間で2ページぐらいの速度です。1冊読むのに150分、2時間半ぐらい。ライトノベル以外だとめっちゃ遅い、というかムラがあるのでうまくわからない。
 1ページを42×17行(これは電撃文庫の字組ですが、最近の文庫ではもっと少ないかもしれない)で計算すると、ベタに字が詰まっているとすると714字、2ページだと1428字になるんだけど、そんなことはめったにないので、まあ1ページ500字ぐらいかなあ。だったら60秒で1000字とすると。
 1秒で16字ぐらい?
 ところで、面白いことに気がつきました。
 映画って1秒間に24コマ、ということは1分間で1440コマ。これは電撃文庫の字組でびっしり文字を詰めたものとほぼ同じ。
 実は、現在作っている物語は、「2時間半で読める、2時間半に起こった事件」という、リアルタイム設定なんですよね。「更新時間」も、日付は違うけど実際に起こった出来事の時間と連動している。
 保存・執筆&メモ用のテキスト以外に「字数計算用」のテキストも作って、42字×34行を1分、という感じで作ってます。
 7日間かかって、やっと10分に相当する物語ができました。
 この調子だと、15週間、つまり105日、3か月半かかるんだけど、それはかかりすぎなので、どこかでスピードアップしないといけない。
 話の密度は濃いんだけど、今のところダラダラ、ひとつの部屋で無駄話をしているだけ。
 ちなみに、「…」は、ひとつを24分の1秒という設定にしてあります。

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やっと4つ目の物語ができたので、「解説者と分析者のためのあとがき」を掲載します

 毎日コツコツと、2か月半ほどかけて書いた物語が完成したので、そのあとがきをブログにも掲載します。
 興味を持たれるかたがいましたら、読んでいただけるとありがたいことです。

kakuyomu.jp これは自分が(ほぼ)完成させた4番めの物語で、テーマは永遠(に近いもの)と愛について、です。

 性同一性障害というのは自分の心と体の性が一致しない障害で、不真面目に扱うようなものではないのですが(真面目に扱っている小説があります)、自分の場合はそういうの読んで、なんか自分のことを「おれ」って言ってる女子っていいな、という感じで物語を作りました。延々と恋愛問題について悩ませる話にしようかとも思ったけど、どうもそういう方向ではうまく作る技術が自分には欠けている、ということでお許しください。

 物語の中で隠そうと努力したことは3つあります。登場人物のひとりと、主人公の五感の曖昧な欠如と再発見(たとえば、色彩とか音楽)、そして「彼」「彼女」という語を使わないことです。テキスト形式の物語だからそういうことやってみたんだけど、映像にするとそこらへんどうなるかはわからない。最後の件に関しては、どうもこの話はその代名詞を使うとうまく書けないな、というだけの理由です。

 なお、今回の物語の主人公は『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』の妹である直(なお)とはパラレルな関係にあります。したがって、この物語には名前は出てきませんが、母親の名前はサブレ、きょうだいの名前はユキ(トシユキ)って言います。また、ハチバンは『物語部員の愛とその遍歴』にワンシーンだけ、男子として出てきます。セイとアカネさんも、別の話に出てきます。なんかこのふたりは使い勝手がいいキャラなんですね。機会がありましたら他の物語もお楽しみください。

 今回も、話のヒントは手塚治虫から頂いた部分が多いです。視覚的イメージがないとうまくテキストが読めない、という人は、手塚治虫の絵をイメージして読むといいんじゃないかな。

ハンス・ヤールセンって誰なの?(山本周五郎)

 山本周五郎が唯一書いたミステリー(探偵小説)に、『寝ぼけ署長』という短編連作集があるんですが、それの最初の「中央銀行三十万円紛失事件」にはこう書かれています。新潮文庫・平成25年1月・57刷、P11

『署長は肘掛け椅子の背に凭れて、肥えた腹の上へがくりと首を垂れて眠っていました。大きな事務卓子(テーブル)の上はきちんと片付いて、読みかけのハンス・ヤールセンの本が披(ひろ)げてあるきりです。』

 で、この「ハンス・ヤールセンの本」というのが、どうにもこうにも見つからない。
 グーグル先生に聞いても、国会図書館で検索しても、そんな人の本なんかはない、って言われる。
 ハンス・カールセンとか、ハンス・ヤルセンとかかな、と思って検索しても、やっぱりわからない。
 いったいこんな人の本は本当に存在するのか。
 単なる誤植ではないことは、あの新潮文庫が57刷もしているんだから、多分ないと思う。
 ということで、もしこの人についてご存じのかたは教えてください。

○○の孫(○○三世)というキャラを出すときの、著作権上の留意点

 アメリカがTPPに参加しないことになったので、日本の著作権は今まで通り「著作者の死後50年」で消失だから、たとえば「明智小五郎の孫」なんてのは、著作者(江戸川乱歩)の許諾を得なくても勝手にやっていいことになっているのと同じく、海外の名探偵の孫も、著作者の死後50年で原則として無断でやれます。
 ちょっとややこしいのが「戦時加算」という、世界中で今は日本しか使っていないイレギュラーなものがあります。
 要するに、第二次大戦中の、具体的には1941年12月7日以前から1952年4月28日(サンフランシスコ講和条約)までに発表された著作物は、最大10年ちょっとだけ著作権が残ることになります(特定の国だけですが)。
 で、ダシール・ハメットは1961年に亡くなってるんですが、『マルタの鷹』(1930年)その他の代表作は戦前に書かれているので、2022年ぐらいまで著作権はあることになっています(多分)。
 レイモンド・チャンドラーは1959年に亡くなっていて、代表作『長いお別れ』(1953年)は著作権切れです。『大いなる眠り』(1939年)から『かわいい女』(1949年)までの長編5作は、2020年ぐらいまで著作権はあることになっています(多分)。
 イアン・フレミングは1964年に亡くなっていて、ジェームズ・ボンドのシリーズ第一作『カジノ・ロワイヤル』(1953年)から全部著作権切れです。
 要するに、サム・スペードの孫はうまく出せない。
 フィリップ・マーロウの孫はちょっとわからない。
 ジェームズ・ボンドの孫は出せる。ジェニー・ボンドちゃんとかね。
 ボンドの孫娘は、なんかたくさんいそうなんだよなあ。

映画『ジャガーノート』で納得できないところ4つ

(以下ネタバラあるので注意)
 映画『ジャガーノート』(1974年)は、爆弾が仕掛けられた客船を扱ったパニック映画で、世間的には「青と赤のコードのどちらを切れば爆発しないか」という奴の元ネタということになっています。
 で、これはネットで拾ったんですが(知恵袋というところ。2017/2/100:55:38、gugyannさんという人)、くわしいことはあちらを見てください。このブログでは要約して自分のテキストっぽくしてみます。
 まず、船には複数の爆弾が仕掛けられており、爆弾処理班のチームがそれぞれの爆弾の場所に行って、いろいろあって、捕まえられた犯人は処理班の隊長と昔なじみで、隊長は犯人に無線連絡で「赤と青の、どちらを切ればいい?」と聞きます(チーム全員がそのやりとりを聞いています)。間違ったほうを切ると爆死です。
 そして犯人は青だ、と言うんだけど、隊長はいろいろ考えて、赤のコードを切ります。そして、爆弾が爆発しないのを確認して、チーム全員に「赤を切れ」と言います。
 でもこれ、変ですよね。
 隊長は、赤のコードを切るときに、実は無言で切ってるんです。つまり、切ってからメンバーに連絡します。それまでは逐一、みんなに○○しろ、○○した、って、進行状況をチェックして、同じ行動を複数の爆弾処理としてやらせてるのに。
 もうすこしわかりやすくすると、犯人が言ったことはメンバーに共有されていて、隊長がやったことは共有されてない。
 つまり、赤のコードを切ると爆発するように作られていて、青が安全だったとしたら(犯人の言うことが本当だったとしたら)、爆死した隊長によってメンバーがわかることは、あっ、青のコードを切ったらダメなんだな、と思うはずです。そして赤いコードを一斉に切って全員爆死。
 つまりこれは、うまいこといったからいいんだけど、なんで隊長はこうメンバーに言ってから切らないんでしょうかね。
「犯人は青を切れと言っているが、おれは赤を切る」って。
 そうすれば、間違ってても死ぬのは隊長だけなんです。
 というのが、知恵袋の中で語られた、納得できない演出です。
 自分の疑問は、どの爆弾も同じ構造にしなくてもいいんじゃないの? ってことです。
 つまり、青と赤のコードの、どちらかを切ったら安全だという爆弾が複数あったら、いろいろ混ぜて、これは赤が危険な爆弾、これは赤が安全な爆弾、って作っておいたらどうよ、と思うのです。
 あと、隊長がどうして犯人は嘘をついているか見抜いたのか、会話のやりとりだけではさっぱりわからない、というのが3つ目の疑問。
 犯人の言うことは「隊長がきみで残念だ」「(どちらかを切れば爆発するというのは)本当だ」ぐらい。この犯人が嘘つきである、とするに十分な情報が、映画を見る側に伝わらないんですよね。
 最後に、なぜ犯人がコードに関して嘘の情報を伝えたのか。もう犯人はつかまってるんで、嘘を言う理由なんてないんです。嘘を言っても死ぬのは隊長だけで、そこまで彼を憎む理由が犯人側にあったのか。脅迫した金は逮捕されて手に入らないから、罪が重くなるだけなのに。
 それらに関する自分の合理的な解釈はこれしかありません。

 コードは赤でも青でも、どっちでも好きなほうを切れば爆弾は爆発しなくなるようにできていた。

やっと物語がひとつできました(解説者と分析者のためのあとがき)

 途中どうもビールばっかり飲んでたせいで、完成がだいぶ遅れましたが、やっと終わりましたので、「解説者と分析者のためのあとがき」を転載します。

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 書き終わってから半日ぐらいは、これは自分が書いた物語の中でも最高、とか思いますが、書き始めのときはいつも、こんなんでうまくいくんだろうか、と考えてしまうのです。だいたい自分の物語は、作者がひどい結末をつけて、作中の登場人物がもうすこしましな結末をつけることになっています。ひどい結末だけどハッピーエンドに見える技術は、多分カート・ヴォネガットあたりから来ているんじゃないかな。自分の気持ちは、お腹に矢が刺さっている人が「痛くない?」って聞かれたときの答と同じです。要するに「笑ったときだけ」。
 そもそもは、『おれの双子の妹はひとりだが6人いる』のもうひとつの結末を書いたミトラさんで、彼女はいったいどんな高校生になるんだろう、と妄想を膨らませたところからはじまります。それから、タイガーな女子とドラゴンな男子の物語(アニメ)を見て、ああいいなあ、こういう話書きたいな、と思って書いてみたんだけど、自分が恋愛脳になりきれないというのがわかったため、全面的にボツにして、ヒロインをいつも通りすこし変な子にしてみました。というか前の2作より変かも。
 あと、自分の話は、その話を書いているときに見たり読んだりしてたものの影響が、同じ時代の人には丸わかり(逆に言うと、すこし時代が経つとわからなくなる)、という作りになっています。たとえば、自分ではうまく(変な)ふうに書けたと思っている、ミトラさんのMC(第51話)なんかは、映画『デッドプール』の影響下、みたいな。
 まあ結果的には、最後のあの一言が言いたいために書いた話、になりました。
 なお、国定節夫(仮)が生きる異世界ファンタジーのほうは、執筆が非常に難航中ですが、そのうちなんとかなるだろう。