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砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

黒澤明の映画の視点(黒澤明の映画術)

 樋口尚文黒澤明の映画術』(1999年、筑摩書房)は、黒澤明の映画の技法についてのみ的を絞った本で、その中では「アクション」「マルチカメラと望遠レンズ」にはじまり、「音楽」「音響」で終止する各種の演出が語られます。
 作品評・役者評はまったくなくて、黒澤明がどのように映画を撮ったか、というだけの話。
 こういうのはビデオ時代(何度も同じ映画の同じシークエンスを勉強のために見ることができるようになった時代)以降じゃないと難しい。
 特に黒澤明の映画はわかりやすくて面白すぎるため、自分でも見ていてあまり勉強になりません。
 一般的に、黒澤明の映画は昔から勉強のためになんか見られてなかったと思う。
 たとえば「ワイプ」の章、『野良犬』(1949年)では、刑事が女スリを追いかける場面では9回のワイプ、『生きる』(1952年)では役所のたらい回しの場面では16回のワイプが使われてる、なんて、映画館で見ているだけならそんな分析なんかできない。
 個人的に面白かったのは、「ショットの視点」の以下の文です。p133-134

『よく映画を一本見終えた後に、なにか物語上の人物の感情がじっくりと伝わってこず、今ひとつ満足できないということがあるとすれば、それは往々にして、物語が誰の視点で描かれているのかよくわからないのが原因だろう。端的にこのことが表れるのは、例えばスリリングなアクションの場面だ。どんなにきびきびと、めまぐるしくカットをつないでも、それがどの登場人物の、どういう視点で描かれているかが判然としなければ、ただこけおどしの慌ただしさがあるだけで、心底はらはらすることなどありえない。
 同じように、若手の映画の作り手たちがミュージシャンのビデオクリップやCMの影響を受けて、ドラマのあるシーンをむやみにさまざまなアングルから撮ってつないでみせたりすることもあるが、これも人物の視点が散漫になるばかりで、私たち観客が物語とどの視点からつきあってゆけばよいのか途方に暮れさせてしまう。ひいては、物語が映画的に熟してゆくのを妨げてしまうのだ。』

 そのあと樋口尚文は、黒澤明の以下のシークエンスにおける視点の確かさを語ります。

・『醜聞』(1950年)の冒頭、画家が絵を描いているところとそれを見ている人たちを後ろから撮る場面
・『隠し砦の三悪人』(1958年)の、雪姫が故郷の秋月領を見下ろして涙するところを後ろから撮る場面
・『生きる』(1952年)の、役人が先立たれた妻を回想するところの、霊柩車の後続の車のフロントガラスから撮った場面
・『八月の狂詩曲』(1991年)の、孫が山々を見ている場面

 そして、視点が変わってもめったに使われることがない切り返しに関しては、『七人の侍』(1954年)の、弱気になった農民を勘兵衛が怒って立ちふさがる場面(怒っている勘兵衛→怒られている農民)が例に挙げられています。

 本日は1185文字です。