砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

自分の倍の年の人の考えはわからないし、半分の年の人の考えは忘れている(機動戦士ガンダム)

 たとえば、あなたが小説を書いているとして、30歳だったとしましょう。
 物語の中に60歳の人を出そうと思っても、多分うまく書けない。既成のテンプレートをなんとかして、想像で補うしかないので、どうもその内面まではきっちり書けないはず。
 逆に15歳の人を出そうと思うと、それがもう、自分では経験あるんだけど、その時どんな感情で人と接していたか、さっぱり思い出せないんだよなあ。
 これが、40歳と20歳の人なら、多分うまく書けるかもしれない。
 機動戦士ガンダム(ファースト)が放映されたのは1979年で、その時富野由悠季は38歳。なんか微妙な年齢だなあ。
 もちろん、今の富野由悠季に若者なんか書けるわけがない。
 自分が若者だったときのことを、偽造記憶でなんとか作り込みながら書いてるだけ。
 高校生の若者には、40代ぐらいの父母と70代ぐらいの祖父母がいることに、多分なると思うんだけど、ライトノベルの作者は、父母はともかく、祖父母まではうまく書けないんじゃないかと思う。

ギャグネタは古いほうから使って行く

 こんなギャグがあるとします。

『彼は連合軍がノルマンディに上陸したという知らせを聞いたときのロンメルみたいな顔をした。』

 でもって、こんなギャグもあるとします。

『彼は巨大不明生物が鎌倉に再上陸したという知らせを聞いたときの内閣官房副長官みたいな顔をした。』

 古いほうはもう古くなりようがないので、使うときにはなるべく古いのを使う。今回の例なら前者を使う。
 これは「カエサルルビコン川を越えたという知らせを聞いたときのポンペイウスみたいな顔」でもいいかなあ。

『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』解説者と分析者のためのあとがき

 作品が完成したので、あとがきを書きました。

kakuyomu.jp 自作自註というのは面倒くさいが、やっておかないと勝手な・余計な解釈をする人もいるのでいやいややる、と三島由紀夫(だったかな、とにかくえらい作家)が言っていたので、別にえらい作家ではないんですが、その真似をします。
 この小説の元ネタは、フィリップ・K・ディックにはふたごのシスターがいた(姉か妹かは不明)、ってことと、フィリップ・K・ディックとアーシュラ・K・ル=グウィンは同じ高校に通っていた、ってことと、落語「五人廻し」です。
 ディックとル=グウィンのもう一つの共通点は、ミドルネームの「K」が何の略か、たいていの人は知らない、ということです。
 落語「五人廻し」は花魁の来ない4人の客(荒っぽい町人・変態っぽい変な人・堅物の侍・田舎者っぽい田舎者)と、花魁と遊んでいるひとりのお大尽の話です。
 もっとそもそもは、別の話・別の世界である『物語部員の生活とその意見』に出てくる現役高校生声優・松川志展(まつかわしのぶ)が、スタジオの隅で中間テストの試験勉強をする場面を考えていて(彼女はレジェンド・藤堂明音さんの「全科目トップ」という野望をくじいた人で、大学には推薦入学で行くことになっています)、この声優の人はいったいどんなアニメに出てるんだろう、と考えはじめたことによります。
『物語部員の生活とその意見』はメタフィクション(フィクションであることを意識したフィクション)なので、この『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』は、メタメタフィクションというか、メタをこじらせたようなメタフィクションになっています。
 別に前作を読まなくても、これ単独でも読めるようになっています。むしろ読むと混乱するぐらい。
 松川志展に特定のモデルはいませんが、複数の実在する声優のイメージを借りています。
 高校にも特定のモデルはありませんが、北関東の、周りが田んぼだらけのだだっ広いところにある、割と自由で中途半端な進学校、ぐらいに思っていてください。
 どちらの話にも似たような人物が出てきますが、キャラ設定を別に考えるのが面倒くさいのと、一連の物語を大きな物語にしたいという筆者の漠然とした考えがあります。ムアコックエターナル・チャンピオン方式みたいなものです。

信頼できない語り手が一人いる物語は、物語の中のすべての人物が信頼できない

 アガサ・クリスティーアクロイド殺し』のメタ構造はさまざまな発展の可能性を生みました。
 クリスティーがその小説の中でやったことは、「信頼できない語り手」をひとり設定したことです。
 でも、それだったら当然、なんでひとりだけという設定でいいのか、という話になる。
 要するに、信頼できない語り手は、作中に複数いてもいい。
 その手法は、すでに芥川龍之介が「藪の中」(1922年)で採用していました。
 ウィキペディアでは「複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化」と書かれています。
 この手法で驚いたのは、小松左京「HAPPY BIRTHDAY TO……」というSF短編です。
 Aがaのつもりで言ってることが、Bにはbに聞こえる、という勘違い現象は、アンジャッシュ系と言います。

落語のオチとホラーの違い(紙入れ)

 落語「紙入れ」は、「知らぬは亭主ばかりなり」の浮気者と人妻とその旦那の話です。
 職人の浮気者は旦那の留守にあれこれやるんだけど、うっかりして自分の紙入れを浮気現場(人妻の家)に置き忘れてしまう。
 旦那は浮気者の親方にあたる者なので、どうにも困っているその男を見て、男は「実は…」と、人の話のように自分のことを話す。
 人妻は「大丈夫だよお、心配しなくったって、そんなことする人妻なんだから、ちゃんと懐に隠してあるに決まってるよ」と、自分の胸を叩く。
 旦那は「そうだよなあ、旦那はそんなことに気がつかねぇ間抜けに決まってらあ」
 と、ここでオチるのが落語のオチ。
 で、桂小南その他上方の落語ではさらに続きます。
人妻「まったく、そんな間抜けの顔、一度見てみたいものやねえ」
旦那「見たいんか…こんな顔や」
 と、最後で落語家は「こんな顔」をやる。
 どんな顔か、というのは、解釈によります。
 ぼくの判断では、このオチはホラーです。
 ジャンルとして落語ということになっている「そば清」と同じようなホラー。

21世紀のミステリの3原則

 昔の本格ミステリの原則(ノックスの十戒とかヴァン・ダインの二十則とか)は、やたら「○○であってはならない」「○○しなくてはならない」というのがあって鬱陶しいんで、今風の本格ミステリっぽいものの原則を考えてみます。

1・犯人は誰でもいい
2・犯行の動機は曖昧でもかまわない
3・事件の謎は合理的に解決されなくても問題はない

 実にわかりやすいでしょ。
 実はこの3原則が縛っているものがあります。
 それは、犯人・犯行の動機・事件の謎は、ミステリーには必要だ、ということです。
 なお、謎を解く人物は必要なんだけど、それは名探偵でなくてもいい。

『風と共に去りぬ』をNHKの朝ドラみたいにしてみる

 はじめに豆知識。
 映画化の際、原作者のマーガレット・ミッチェルが「レット・バトラーは誰がいいですか」って聞かれたときの答は…。

 答は…。

 答は、グルーチョ・マルクス
 ああ、それも悪くないかもなあ。あの詐欺紳士っぽいところぴったりだ。

 それはともかく、日本のNHKの朝ドラで『風と共に去りぬ』を考えます。
 ヒロインは広島近郊・太良(タラ)に地所を持つ大原(おおはら)家の長女・あかねさん。
 戦前の園遊会とか、大阪に行ったりしていろいろあるけど、戦後は没落して、農地改革と税金でとんと困り果てる。
 そんなところを助けてくれるのは、戦後大阪・広島の闇市で大儲けをした、羽鳥龍二という詐欺紳士っぽい人。
 彼の実家は芦屋の由緒ある家柄だけど、故あって疎遠になっている。ヤクザと進駐軍が嫌いな彼は、日本帝国の旧海軍に所属したこともあって、船長とか呼ばれてる。
 問題はまあ、この話をやるときには関西弁と広島弁の指導を、役者がちゃんと受けないといけないところやね。