砂手紙のなりゆきブログ

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真紅の王(クリムゾン・キング)と『ロミオとジュリエット』の関係

ロミオとジュリエット』を何も知らないで鑑賞する(もしくは、読む)と不思議なのは、「なんでこんなにロミオのモンタギュー家とジュリエットのキャピュレット家って仲悪いの?」ってことです。
 これの起源は、神聖ローマ帝国の皇帝であり、シチリア王にもなったフリードリヒ二世の野望に由来します。
 彼の野望は教皇との軋轢とドイツ国内の疲弊、それにイタリア諸国における貴族・王族の対立を招きました。ロミオとジュリエットの悲劇を産んだモンタギュー家とキャピュレット家との対立も、この赤の王に由来しているんですね。
 王は死の予言が成就される「花」と「鉄の門」を嫌ったために花の都であるフィレンツェに足を入れることはなく、真紅の衣で真紅の墓に埋葬されました。
 この件に関しては、キング・クリムゾンのファースト・アルバムに収録されている「エピタフ(墓碑銘)」という曲と歌詞を聞いたり読んだりすればわかります。
 混乱、それが私(フリードリヒ二世)の墓碑銘。

ひとりロミオ貫一とジュリエットお宮

 これの元ネタは笑福亭仁鶴が「くしゃみ講釈」の中で語った寄席演芸の芸です。
 そもそもは『金色夜叉』のお宮と貫一を、ひとりの芸人が顔を半分ずつに塗り分けて、こっち向いたらお宮で、反対向いたら貫一をやる、という、誰の迷惑にもならない芸(仁鶴・談)だそうであります。
 それに、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』その他を混ぜてみる。

ヴェローナの町を散歩する、ロミオとジュリエットの二人連れ♪」ぎやぎや(バイオリン)
     *
ジュリエットお宮「ああ貫一さん、どうしてあなたは貫一さんなの。どうかその名を捨てて」
ロミオ貫一「伯爵夫人の名に目がくらみ、明日パリス伯爵と結婚するとは。よ、よくも僕を裏切ってくれたな」
ジュリエットお宮「お許しください貫一さん」
ロミオ貫一「えい離せ」
ジュリエットお宮「貫一さん」
ロミオ貫一「えい離せ」
 と、これをひとりでやる。松の木をはさんで、右と左でやってるんだけど、そのうちどっちがどっちかわからなくなって、
ロミオ貫一「貫一さん」
ジュリエットお宮「えい離せ」
 みたいな感じになる。これはネタですね。
ロミオ貫一「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」
ジュリエットお宮「不実な月などに誓うのはやめて」
ロミオ貫一「月は晴れても心は暗闇だ」
ジュリエットお宮「別れろ切れろはバージンのときに言う言葉。今の私には、いっそ死ねと…言ってください」
 と、泣き伏せるジュリエットお宮。
ロミオ貫一「止めて下さるなお宮殿。落ちぶれ果てても貫一は武士じゃ、男の散りぎわだけは知って居り申す。行かねばならぬそこをどいて下され、行かねばならぬのだ」
ジュリエットお宮「離しませぬ」
ロミオ貫一「えい離せ」
 とかやってるうちに松の木が倒れて、向かって右から左に退場しようとするロミオ貫一だけど、途中で向きを替えてジュリエットお宮になって、後ろ向きでムーンウォーク(前に進んでいるように見えながら後ろに進む例のあれ)で引っ込む。

 これは、今書いている小説で使います。

kakuyomu.jp

シェイクスピア『ロミオとジュリエット』の真犯人は誰か

 映画で一番よく知られていた『ロミオとジュリエット』は1968年のフランコ・ゼフィレッリ監督作品ですかね。元ネタがくだらないので、これも含めて、作られた映画もだいたいくだらない。基本プロットみたいなのを頂いて作り直した『タイタニック』(1997年)は面白いんだけど、なんと! その前年に公開された『ロミオ+ジュリエット』(1996年)でロミオ役をやるレオナルド・ディカプリオが水の中に沈んでいるところがある。あまりにもこの映画、全体にパロディっぽいんで、『タイタニック』の真似してそこの場面作ったのかと思ったら逆だよ!
 話のほうは、日曜日に両家が教会前で派手な喧嘩をして、月曜日に晩餐会があってロミオとジュリエットが出会って、火曜日に結婚してその日の午後にマキューシオとティボルトが死んで、その日の夜から朝にかけてセックスして、水曜日にパリス伯爵との結婚式の予定が組まれて、その日の夜に自殺みたいに見える薬を飲んで、木曜日に葬儀で、その日の夜に勘違いしたロミオが死ぬ。ロシア民謡の「一週間の歌」より展開が早い。
 ところがロミオが死んだと思ったらそれはただの死んだように見える薬を飲んだだけで、目が覚めたジュリエットは勘違いして薬を飲んで死ぬ。
 ところがジュリエットが飲んだ薬も死んだように見えるだけの薬で、目が覚めたロミオは勘違いして、と延々と続くことになりそうなところを、いい加減うんざりしたティボルトが「お前らいい加減にしろ! ゆっくり死んでられないじゃないか!」とよみがえってオチをつける、という話ではありませんが(それではただのコントで悲劇にならない)、この事件の真犯人をぼくは知っています。というか多分皆さんも知ってるんじゃないかな。
 この件で多分一番得をする人物、つまりロミオのいとこのベンヴォーリオです。
 町なかでの喧嘩沙汰は2回ありますが、そのどちらにもかかわっていて、キャピュレット家の晩餐会に仮面で忍び込むのもベンヴォーリオの案で、ロミオがティボルトを殺すときもベンヴォーリオの剣を借りておこないました。
 …ここらへんは記憶で書いているのでどうも我ながら嘘が混じってる(話を盛ってる)気がしますが、ただ一つ言えることはこれだけ。
 ベンヴォーリオが、ロレンス神父の手紙を持った使いの人を追い越さなければ、いろいろあっても最後にはどうにかなった。
 そもそも、ジュリエットの死(死んだフリ)をなんでそんなに早く伝えなければいけなかったのか。もう死んじゃってるのどうしようもないだろ。これが「木曜日の結婚式をロミオに阻止させる」ためなら早く伝える必要はあるとは思うんですけどね。
 これで『マクベス』『ハムレット』に続いて、シェイクスピアの悲劇の真犯人がまた見つかりました。
 次は…『リア王』かな。よく知らないけどなんか、コーディリア(王の末娘)が黒いオーラただよってる。
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ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞記念で過去記事に言及する

これですな。

sandletter.hatenablog.com

 似たようなこと書いておくと、この時代のボブ・ディランってアレン・ギンズバーグと友達で、ランボーヴェルレーヌといったフランス象徴主義の詩を、多分英訳で(「Louise Varese や Wallace Fowlie あたり」の訳で)読んで、あんなわけのわからない歌詞を作ってたんじゃないかと思う。

架空世界を作るには

 架空世界を作るには、まず太陽系を中心にした半径100光年の球形の銀河光世紀地図を使って、モデルになりそうな星(恒星)を決めます。
 舞台にする惑星と恒星の距離は、恒星がどのくらいのエネルギーを放出しているかで決まり、同時にその惑星における1年(公転周期)、恒星からの距離も決まります。公転の速さは恒星からの距離の平方根に反比例します。
 恒星の色と大きさも決まります。小さくて鋭い光源(その惑星における太陽)と、大きくてぼんやりしている光源とでは、風景の色も変わります。極地と赤道付近との温度差は、地軸の傾き、海(水)が地表面を覆っている面積、などなどを計算して出します。
 だいたいの大陸の形と川の流れと都市の場所を決めます。それは物語の舞台となる場所です。そして、その都市と国に1千年の記録された歴史、大陸の主要地域に5千年の記録された歴史、2万年の記録されない部分を含む文明の歴史、数回の大変動期を含む数億年の生物の歴史を作ります。生物が生まれる前の歴史は、そんなにちゃんと作らなくても大丈夫です。
 それができたら、物語の主要人物を、顕微鏡で微生物を拡大して個別認識するように、ピントを合わせて、光を正しく当てて、観察できるようにして、物語のテーマをその人物にかぶせます。
 あっ、いちばん最初に決めておかなければいけないのは、テーマ、つまりこの話で、物語の作者はどういうメッセージを伝えたいか、ということでした。それを忘れてた。そのテーマとメッセージは、いきなり頭の中に浮かんでくるので、それを忘れずにメモするのが話作りの基本です。

小説の冒頭で一番よかった作家はというと

 どうにも小説の、エピソードごとの書き出しに難儀しているので、昔の作家をパクることにしました。
 すでに死んでいる外国人作家(著作権切れてる人)の、ちゃんとした翻訳を参考にテキストをいじって使う。
 まず図書館に行って、古い文学全集(1960年代末から1970年代はじめにかけて刊行された「新潮世界文学」って分厚い本)の冒頭をカチャカチャと、スマホブルートゥースでつながるキーボードで入力するのです。
 この全集は、だいたいどの文学全集もそうだけど重くて、冒頭だけのために図書館から借りるのはめんどくさい。だいたいどの図書館もけっこう遅くまでやっていて、キーボードを叩いても迷惑でない場所がある。
 つくづく思ったのは、フランスの19世紀作家の冒頭はつまらない、ということです。
 その代わりに序文があるんですかね。
 序文がなくなって、「この物語は…」的な語りが小説の冒頭に組み込まれるようになったのは、19世紀末ぐらいかなあ。
 大岡昇平訳のスタンダール『パルムの僧院』はこんな感じ。

『一七九六年五月一五日ボナパルト将軍は、ロジ橋を突破した若い軍隊を率いてミラノにはいった。』

 だから何だよ、と言いたくなる。
 平岡篤頼訳のバルザックゴリオ爺さん』はこんな感じ。

『ヴォケー夫人、旧姓ド・コンフラン、は四十年前からパリで下宿屋を開いている老婦人で、彼女のその下宿は、カルチェ・ラタンとサン・マルソー地区の間にあるヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ街に位置している。』

 もう全力で、読みたくなくなるオーラがにじみ出てる。
 ちょっとよくなるのは、ドストエフスキー
 木村浩訳の『白痴』はこんな感じ。

『十一月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルグへ近づいていた。とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった。』

 これが、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』だと、こんな感じ。

『アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死をとげて当時たいそう有名になった(いや、今でもまだ人々の口にのぼる)この郡の地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの三男であった。この悲劇的な死に関しては、いずれしかるべき箇所でお話しすることにする。』

 少しだけ、物語を語るぜ、という文体になるわけです。
 今のところ、感心したのはロマン・ロランという作家。名前ぐらいは知ってるけど、読んだことはない。
 新庄嘉章訳の『ジャン・クリストフ』。

『河の水音がごうごうと家のうしろで高まっている。雨は朝から窓ガラスをたたいている。すみっこにひびの入ったガラスに、水蒸気の滴(しずく)が流れている。黄色っぽい昼の光が消えていく。部屋はなま暖かく、どんよりしている。』

 宮本正清訳の『魅せられたる魂』。


『彼女は光に背をむけて窓ぎわにすわっていた。落日の光線をその首やがっちりした襟首にうけて。彼女は今しがた帰ったところであった。幾月このかたはじめて、アンネットは戸外で一日を過ごして、田舎で、歩きまわり、この春の日光に酔うた。芳醇なぶどう酒のように陶然とさせる日光は、葉の落ちた木々の陰にもうすめられず、そして去ってゆく冬のさわやかな空気に生気をおびていた。』

 この時代になると、映像的に語る、という手法が生まれて定着してるんですかね。20世紀のはじめぐらい。
 訳者によってだいぶ変わると思うので、訳者・作者の順で紹介してみました。他の翻訳テキストも打ち込んでみよう。

昔のライトノベルは少年漫画みたいで面白いんだけど、いつから冷笑系がメインになっちゃったのか

 昔、と言っても21世紀になってからの男性向けライトノベルですが。

 おれは!
 絶対に!
 あの子を守る!

 みたいな感じがあって、これはこれでけっこう悪くないのです。
 でも最近のラノベ読んでると違うんだよね。

 え? おれがあの子を守るの?
 はいはい、守りますよー。

 ざっくりこんな感じ。
 いつからこうなったのかは皆目不明だけど、涼宮ハルヒのシリーズがターニング・ポイントかなあ。キョンの語りがまあ、そのハシリみたいな印象。

 おれの!
 おすすめは!
 …『灼眼のシャナ』だ!

 今のライトノベルのおすすめは『エロマンガ先生』です。