MGMとサミュエル・ゴールドウィン
映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンは、はじめイギリスで金魚売りをしていましたが、その後アメリカに渡って手袋売りで成功して社交界のセンスを身につけました。帽子とか馬具とか手袋というのはアメリカでも上流階級の人が買うものなので、新聞や豆腐売る人と違って、落ちぶれた上流階級の人か、上流階級のマナーに我慢できる人が売りました。その後映画会社を共同で経営することになって、会社の名前をゴールドウィン・ピクチャーズにして、自分の名前もゴールドフィッシュからゴールドウィンに改めました。
製作資金の調達と映画館支配のために、ゴールドウィン・ピクチャーズとメトロ映画社が合併することになったのを聞きつけたルイス・B・メイヤーは強引に話に割り込んで、社名は「メトロ・ゴールドウィン・メイヤー」のほうがかっこいいだろ、って無理やり自分の名前を入れさせて、業界一の高給取りになりました。
その後サミュエル・ゴールドウィンは独立しておしゃれな映画を撮りつづけ、アカデミー作品賞『我等の生涯の最良の年』(1946年)のほか、候補の作品も何度もプロデュースしました。