丸谷才一の人脈とかで話に出てこない人(綱淵謙錠)
丸谷才一は非常に人間関係・人脈を大切にした人で、旧制高校(新潟高校)や大学(東京大学)の先輩・後輩を含め幅広い交際をしており、書評集はその3分の1ぐらいが知り合いの本というぐらいのありさまです(個人的主観)。
にもかかわらず、同じ高校・大学の出身者で中央公論社の編集者から作家になった綱淵謙錠の話が、ぼくの知る限りではまったく出てこないのが不思議です。
綱淵謙錠は1924年(大正13年)9月21日生まれで、1943年(昭和18年)旧制新潟高校に入学、1946年(昭和21年)春東大入学して、苦学しながら1953年(昭和28年)東京大学文学部英文科を卒業、1971年に中央公論社をやめて、その間にT.S.エリオットとか谷崎潤一郎の全集を出しました。
小説は子母澤寛の流れをくむ時代小説、というより歴史小説を書きました。
日本ペンクラブという文筆者の会の事務局長もやりました。
丸谷才一は1925年(大正14年)8月27日生まれで、1944年(昭和19年)旧制新潟高等学校に入学、1947年(昭和22年)春東京大学文学部英文科に入学、1950年(昭和25年)に卒業、大学院まで行って大学の講師をしながら1960年(昭和35年)10月に初長編『エホバの顔を避けて』を刊行。旧かなづかいのエッセイストとしても有名です。
要するに綱淵謙錠は旧制高校では先輩、東京大学では後輩ですが、在籍時期は一部重なってます。
なのに、1960年代は中央公論社で丸谷才一が仕事した痕跡がうまく見当たらない。
丸谷才一が卒論にしたジョイスとT.S.エリオットはけっこう因縁あるし(おまけにT.S.エリオットは丸谷才一の友達の吉田健一が訳してる)、丸谷才一は1972年に『たつた一人の反乱』で谷崎潤一郎賞(中央公論社が主催の文学賞)を受賞している。1978年には『エホバの顔を避けて』も中公文庫になってる。
よっぽどいろいろあったんだろうなぁ、とかつまらないこと考えてしまいます。
丸谷才一は1968年に『年の残り』で芥川賞を受賞し、綱淵謙錠は1972年に「斬」で直木賞を受賞します。
綱淵謙錠はその後、旧制新潟高校の恩師である東洋史学者の植村清二(丸谷才一の恩師でもあります)に挨拶に行きますが、それは植村清二が直木賞の名前の由来である直木三十五の実弟だからです。直木三十五の本名は植村宗一って言います。
同じく植村清二の教え子である野坂昭如も1967年に『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞してますが、挨拶したかどうかはわからなかった。
(追記)
1973年1月号の文藝春秋に野坂昭如・綱淵謙錠・丸谷才一の鼎談が掲載されていると小谷野敦さんに教えていただきました。
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