砂手紙のなりゆきブログ

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殴ったほうは覚えているが殴られたほうは忘れている(手塚治虫)

『神様の伴走者』(2010年、小学館)は、手塚治虫(以下敬称略)担当者だった13人の編集者と、マネージャーだった松谷孝征、同じ漫画家で手塚治虫の非常時に手伝ったこともある藤子不二雄A(安孫子素雄)に、ビッグコミック1編集部(当時)の佐藤敏章がインタビューして、手塚治虫の大変な話を複数視点・証言によってまとめた本です。
 だいたいどの編集者も、手塚治虫の担当は他のことができなくって、原稿ができるまでただ待つだけという生活だったそうです。
 ネームができて、写植を頼みに会社に戻ると、先生は他の雑誌の原稿を描いてる。
 寝てしまうと、先生は他の雑誌の原稿を描いてるか寝てしまう。
 起きてそばにいる編集者がふたりの場合は、編集者がひとりになったすきにもうひとりの編集者がどこかに連れてって自分の雑誌の原稿を描かせるので、常に最低3人起きてそばにいないといけない。
 先生が「この資料がないと描けません」と言った場合に、すぐサッと出すとへそを曲げる(先生がそう言うのは単なる時間かせぎのため)ので、それなりに苦労して探したフリをする。
 先生がちょっとトイレに、と言って席を立ったとき、誰かがトイレの前でしっかり待ってないと映画の試写会に行かれる。
 先生は仕事は断らないし、仕事以外のときはニコニコしているので、ついだまされる。
 実際に仕事にとりかかると、ものすごく早い。『ブラック・ジャック』は毎週16~17時間であげてた(他の仕事がない場合)。
 で、インタビューの中に出てくる、小学館の編集者であった鈴木五郎は、小学館ではじめて手塚治虫の原稿を依頼し、原稿を3か月連続で落として、会社をやめた人、ということになっている人です。
 そのことに関して彼は、次のように語っています。P96

(佐藤敏章)手塚先生の原稿がおちたってことが、その後、鈴木さんが小学館をおやめになる原因になったってことはないんですか?
鈴木五郎)それは、まったくないです。
(佐藤敏章)じゃあ、小学館おやめになった理由って、何だったんですか?
鈴木五郎)なんかね、子供の本ってのに、あんまり向いてないんじゃないかと思ってね。大人の方に移ってみたいって気持ちがあったんですよ。
(佐藤敏章)当時(注:1950年代後半)、小学館には大人の雑誌はありませんでしたからね。
鈴木五郎)今でこそ、いっぱいありますけどね。真中さん(注:当時の雑誌「中学生の友」編集長で鈴木の上司)に殴られてね、「じゃあ、やめる」ってんで、昭和33年の2月いっぱいでやめて。
(佐藤敏章)えっ、編集長に殴られた! 原因はなんだったんですか?
鈴木五郎)忘れた(笑)。「この野郎」ってね。手塚さんのこととか、そんなんじゃなかったと思いますよ。僕がわがままだったから。なんか自由にやっててね。真中さんの好かんことがあったのかもしれませんね。フワフワしてて、いつもいいかげんにやっている風だったから。
(佐藤敏章)手塚先生は、鈴木さんが小学館をやめられたのは自分の原稿が間に合わなかったせいだって、おっしゃっていたらしいんですが。
鈴木五郎)えーー!

 ということで、サイドインタビュー(別の人の証言)。
 
 新井善久(当時の「少女クラブ」手塚番)
 順番会議で、「中学生の友」の担当の人が、「先生のところは、なんで朝から晩まで編集者がついていなきゃならないんですか」と聞いたんです。手塚さんは「僕は、みんながいなくたって描くんです。だけど、僕のこと、みんな信用しないんだ」と。そうしたら、その担当の人が、「わかりました。私は先生を信用します。私はついたりしません」といって、感激した手塚さんと握手なんかしてる。あとの連中は、みんなシラーッとして。その月、「中学生の友」は、本当につかなくて、原稿はおちました。次の月もおちて、3回連続でおちたかな。そうしたら、その担当の人が辞表を出したっていう話が伝わってきて、手塚さん、まるで駄々っ子のように、あんた方があそこをおとしたんだよ。僕は描く気でいたのに、あんた方が描かせなかったじゃないの。あの人、会社辞めちゃって、僕はどうやってお詫びすればいいのか」って、僕らに八つ当たりしてね。

 これはひどい
 もうひとつ。

 真中義行(当時の「中学生の友」編集長)
 手塚さんの連載は、今、思い出しても、薄氷を踏む思いでしたね。常に穴埋めの原稿を用意していました。原稿がおちた時のことは鮮明に覚えています。鈴木くんは宝塚の手塚さんの自宅まで追っかけていってました。それほど切迫していたということですね。入稿ギリギリの朝、待てど暮らせど鈴木くんからの連絡がなくて、やむなく代替え原稿で印刷を始めました。お昼頃に、鈴木くんが原稿を持って出社してきて、聞くと、原稿を持ったまま家へ帰って、ひと眠りしていたっていうんで、思わず頬に一発くらわせたのを覚えています。その後、ふたりとも辞表を出しました。辞表は却下されましたが、暴力をふるったことは、社内でもだいぶ問題になったようです。手塚さんの原稿は、次号に掲載したと思います。作品が尻切れとんぼになった経緯は記憶にありません。

 だいたい、手塚治虫関係の話って関係者が盛りすぎている(生前の手塚治虫本人も含めて)んで、めちゃくちゃ面白いんだけど、真相はどうなのか、って考えると不思議なんだよなあ。