砂手紙のなりゆきブログ

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浄瑠璃坂の仇討ちと赤穂浪士

 赤穂浪士の仇討ちのモデルとして有名な事件に、浄瑠璃坂の仇討ちというものがあります。
 これは寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に起きた事件で、寛文8年3月2日(1668年4月13日)、宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要で、家臣の奥平内蔵允(くらのすけ)が同じく家臣の奥平隼人と口論になり(原因は不明)、深手を負った奥平内蔵允は切腹、奥平隼人は改易(クビ)、奥平内蔵允の息子・奥平源八は追放になり、奥平源八に与する集団42名が、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷に潜んでいた隼人を討ち取る(親の仇を取る)という話です。
 赤穂浪士の件が元禄15年12月14日(1703年1月30日)なんで、だいたい30年前の事件ですかね。
 この時の将軍は4代・徳川家綱で少し影の薄い人物ですが、大老・井伊直澄により仇討ちをした人たちは切腹ではなく伊豆大島への遠島の刑になり、奥平源八も恩赦を受けてその後彦根藩井伊家に召抱えられたということです。
 丸谷才一赤穂浪士の件については、曽我兄弟の仇討の話が当時の武家に影響を与えたとか言ってますが、集団での江戸市中でのテロ行為と、当時のこの事件の人気の高さなどを考えると、今ではあまり知ることのない(日本の三大仇討ちからも今は外されてる)浄瑠璃坂の仇討ちの影響も考えてみたほうがよさそうです。