砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

昭和30年代の映画の中のテレビという微妙な関係(歌え若人達)

 小津安二郎の映画『お早よう』(1959年)では、定年退職して再就職した男(再就職先は「黒門町にある電機会社」と言っているので明らかに当時そこに東京支社があった三洋電機です)のセールスと子供にせがまれて登場人物の一家族は月賦でテレビを買います。何やら水商売系の仕事をしている夫婦の家にはすでにテレビがあって、買う前にはそこで子供たちは相撲を見たりします。
 森繁久彌主演の社長シリーズ、『社長道中記』(1961年4月)では太陽食料の三沢英之助社長が大阪での取引先の接待・余興芸として他の社員2人と共にテレビCMの真似をやり、『社長洋行記』(1962年4月)では桜堂製薬の本田英之助社長が貼り薬「サクランパス」のCM(アニメです)試写を見て手直しを要求し、『社長外遊記』(1963年4月)では丸急デパートの風間圭之助社長が5人いる娘の1人にマイクロテレビをねだられます(大きいテレビはすでに持ってます)。他にもいろいろ、ちょっと思い出せないものも含めてあるんですが、昭和30年代(東京オリンピック以前)のテレビ視聴に関する扱いが面白いと思いました。
 その時代の映画の中で語られるテレビとして印象的なのは、木下惠介監督『歌え若人達』(1963年1月)ですかね。この映画は当時の松竹アイドルタレント(って言うのかな)男性を大学生4人として登場させ、その中の一人・森康彦(演じているのは松川勉という人)が雑誌のグラビアで採用されたのに目をつけられ、テレビ局のディレクターから連続テレビドラマの主演にスカウトされます。この時代ってスカウトに来るのは芸能プロダクションじゃないんですね。ということで、毎週土曜日夜8時~8時半のアクション・ドラマ『若者の傷は癒えず』は、電車の中吊り・新聞の下段広告にまでなります。8チャンネル放映でスポンサーは名糖ホモビタ牛乳(協同乳業)。

f:id:sandletter:20140301224406j:plain

 もうこの時代には、若者のヒーローは「映画スター」じゃなくて「テレビタレント」っていうことになってたんですかね。
 ちなみに木下惠介自身は1964年、博報堂・TBS(旧6チャンネル)とともに「木下恵介プロダクション」を設立し、東京オリンピックが終了したその年の10月27日から「木下恵介劇場」をスタートし、「木下恵介アワー」に名前を変えて1974年9月25日まで番組が作られます。スポンサーは大正製薬から日産自動車で、8チャンネルとも牛乳会社とも関係のないところが面白いです。