砂手紙のなりゆきブログ

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ウォルター・マーチが語る映画の「青い部屋」問題と『地獄の黙示録』の音楽

 引き続き今日も『映画もまた編集である』(マイケル・オンダーチェみすず書房、2011年)でウォルター・マーチが語ったことを語ります。
 今日はまるまるテキストを引用したほうが面白いかな。映画『カンバセーション…盗聴…』(1974年)のラフ編集だった5時間を2時間弱にしたときの話です。p160-161

『削除をはじめるとき、「自分たちが表現したいと思っていることを明確に表しているシーンは、絶対に削除できない」という気持ちになるのは当然だけれど、どうしても長すぎるので、やむなくそういうシーンを切り捨てることになった。ところが、これを取り払ったことで、それ以上のものを獲得できたような、矛盾した感覚になった。そこで獲得できたものは途方もないほど潤沢だったんだ。削除したのに、それ以上のものを獲得できるなんてありえるのだろうかと、単純な疑問がわき出たよ。
 そのとき私が行きついた推論を説明するのが、青い裸電球で照らされた部屋のたとえ話なんだ。部屋を「青く」したいという理由でこの電球があるとする。この部屋に入り、青い光を放つ電球が目に入ると、「ああ、これが青さの源なのだな。この部屋の青さはすべてこの電球から発せられているんだな」と理解はできる。ところが、この青電球があまりにも強すぎる裸電球なので、思わず目を伏せてしまう。とても強烈な光源だからね。青いけれど、求めているものそのものでありすぎるがために、目を伏せてこれを遮断しなければならない結果になってしまうんだ。
 この比喩がそのまま当てはまるシーンは数多くあるよ。シーンがあまりにもダイレクトに要点を語っているがために、心が目を伏せてしまう。そんなときは、「もしこれを取り払ったらどうなるだろう」と考えてみる。「いや、そんなことをしたら青さがなくなってしまうじゃないか」、「いやいや、とにかく試しに一回削除してみて、どうなるか様子を見てみよう」と自問自答する。この「試しに取り除いて、どうなるか様子を見る」というところがミソなんだ。
 恐る恐る青電球を外してみると……この部屋には別の光源もあったことに気がつく。しかも、まぶしすぎる光源を取りはずしたので、しっかりと目を見開くこともできる。視覚というのはすごいもので、たとえば太陽を見上げたときなど、あまりにも強烈な光がそこにあると、目を守るため眼球の虹彩が閉じられるようにできている。しかし逆に光源が少ないと、瞳が大きく開かれ、そこにある光を最大限に利用しようとするんだ。
 青電球がなくなったいま、大きく目を開いて、そこにある光だけでこの部屋を見てみると、そこに青いものがあることに気がつかされる。それまではこの青さの源はあの電球だけだと思っていたのにね。しかも、そこに残っていた青さは、別の色との相互作用で、ただ強くて青いだけの光よりもずっと複雑で興味深い色調になっていたりする。』

 ウォルター・マーチの、映画のクレジットに名前が出る仕事はフランシス・フォード・コッポラの『雨のなかの女』(1969年)にはじまり、そのときは組合に入っていなかったので「サウンド・エディター」という言葉が使えず、コッポラは彼と相談して「サウンド・デザイナー」という言葉を作りました。要するに世界最初のサウンド・デザイナーです。
 ウォルター・マーチは、『地獄の黙示録』を1979年と2001年に編集していますが(後者は「特別完全版」という名目です)、ドアーズのジム・モリスンの音楽は、あまりにも映画に合いすぎている(要するに青すぎる裸電球だった)ため、ほんの少ししか使えなかったそうです。
 あと、監督も役者も会心の演技だと思っているカットはだいたい使えないとかね、もう参考になりすぎます。