砂手紙のなりゆきブログ

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8月は毎日小説(物語)を書きました

 毎日1500字目標でダラダラ書いて、4万5千字ぐらいになったかな。
 夜の9時からダラダラ、ネットのあちこちを見ながら2~3時間ぐらいかけて書くのです。
 今の調子だと、10月いっぱいまでかけて、15万字ぐらいで終わるといいなあ、ぐらいの感じ。
 その関係で、こちらのブログのほうはしょっちゅう休んだりしているのです。

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ウォルター・マーチが語る映画の「青い部屋」問題と『地獄の黙示録』の音楽

 引き続き今日も『映画もまた編集である』(マイケル・オンダーチェみすず書房、2011年)でウォルター・マーチが語ったことを語ります。
 今日はまるまるテキストを引用したほうが面白いかな。映画『カンバセーション…盗聴…』(1974年)のラフ編集だった5時間を2時間弱にしたときの話です。p160-161

『削除をはじめるとき、「自分たちが表現したいと思っていることを明確に表しているシーンは、絶対に削除できない」という気持ちになるのは当然だけれど、どうしても長すぎるので、やむなくそういうシーンを切り捨てることになった。ところが、これを取り払ったことで、それ以上のものを獲得できたような、矛盾した感覚になった。そこで獲得できたものは途方もないほど潤沢だったんだ。削除したのに、それ以上のものを獲得できるなんてありえるのだろうかと、単純な疑問がわき出たよ。
 そのとき私が行きついた推論を説明するのが、青い裸電球で照らされた部屋のたとえ話なんだ。部屋を「青く」したいという理由でこの電球があるとする。この部屋に入り、青い光を放つ電球が目に入ると、「ああ、これが青さの源なのだな。この部屋の青さはすべてこの電球から発せられているんだな」と理解はできる。ところが、この青電球があまりにも強すぎる裸電球なので、思わず目を伏せてしまう。とても強烈な光源だからね。青いけれど、求めているものそのものでありすぎるがために、目を伏せてこれを遮断しなければならない結果になってしまうんだ。
 この比喩がそのまま当てはまるシーンは数多くあるよ。シーンがあまりにもダイレクトに要点を語っているがために、心が目を伏せてしまう。そんなときは、「もしこれを取り払ったらどうなるだろう」と考えてみる。「いや、そんなことをしたら青さがなくなってしまうじゃないか」、「いやいや、とにかく試しに一回削除してみて、どうなるか様子を見てみよう」と自問自答する。この「試しに取り除いて、どうなるか様子を見る」というところがミソなんだ。
 恐る恐る青電球を外してみると……この部屋には別の光源もあったことに気がつく。しかも、まぶしすぎる光源を取りはずしたので、しっかりと目を見開くこともできる。視覚というのはすごいもので、たとえば太陽を見上げたときなど、あまりにも強烈な光がそこにあると、目を守るため眼球の虹彩が閉じられるようにできている。しかし逆に光源が少ないと、瞳が大きく開かれ、そこにある光を最大限に利用しようとするんだ。
 青電球がなくなったいま、大きく目を開いて、そこにある光だけでこの部屋を見てみると、そこに青いものがあることに気がつかされる。それまではこの青さの源はあの電球だけだと思っていたのにね。しかも、そこに残っていた青さは、別の色との相互作用で、ただ強くて青いだけの光よりもずっと複雑で興味深い色調になっていたりする。』

 ウォルター・マーチの、映画のクレジットに名前が出る仕事はフランシス・フォード・コッポラの『雨のなかの女』(1969年)にはじまり、そのときは組合に入っていなかったので「サウンド・エディター」という言葉が使えず、コッポラは彼と相談して「サウンド・デザイナー」という言葉を作りました。要するに世界最初のサウンド・デザイナーです。
 ウォルター・マーチは、『地獄の黙示録』を1979年と2001年に編集していますが(後者は「特別完全版」という名目です)、ドアーズのジム・モリスンの音楽は、あまりにも映画に合いすぎている(要するに青すぎる裸電球だった)ため、ほんの少ししか使えなかったそうです。
 あと、監督も役者も会心の演技だと思っているカットはだいたい使えないとかね、もう参考になりすぎます。

ウォルター・マーチがトーマス・エジソンの17秒の映画に音をつけるまでの職人芸

 トーマス・エジソンは自分の業績の筆頭として音を記録することができるもの(蓄音機)を作ったことを挙げています。
 まあ映画なんてただのパラパラ写真ですからね。
 エジソン(と、その弟子のウィリアム・ディクソン)が残した映画としては、1894年、ディクソンがバイオリンの音を録画している17秒の映画がありました。
 これは現代の映画の基本である1秒24コマではなく40コマとして撮影されていて、その音源も長い間不明でしたが、突然それが2分30秒の、半ば壊れかけたサウンドシリンダーとして発見されました。
 米国議会図書館の映画テレビ部門のヘッドだったパトリック・ラフネーは、オーソン・ウェルズ黒い罠』(1958年)の再編集をしていたプロデューサーのリック・シュミドリン経由で神職人映画編集者であるウォルター・マーチに依頼し、彼の手によって映像と音がマッチングされました(2003年)
 ウォルター・マーチはさらに、映像に出ているふたりのさりげない会話がノイズとして残っていることに注目し、さらに解析する技術が進めばそれは「世界最古のさりげない(演技していない)会話が出ている映画」ということになるかもしれない、と言っています。
(今日の記事は『『映画もまた編集である』(マイケル・オンダーチェみすず書房、2011年)に依拠しています)

映画編集者のウォルター・マーチがクルツィオ・マラパルテに出会うまでの屈折した道

 映画関係の職人仕事でやってみたいのは、照明と編集です。
 照明は映画に光と影と色を与えて、文脈的に矛盾がないようにするのが仕事です。
 編集は現場が一生懸命撮った50~100時間のフィルムと音を、ひとりで暗いところにこもって、2~3時間にするのが仕事です。
 ウォルター・マーチは、フランシス・フォード・コッポラと組んで『ゴッドファーザー』(1972年)を編集したり、まあいろいろな仕事をしている神職人です。
『映画もまた編集である』(マイケル・オンダーチェみすず書房、2011年)の中で、彼は優れたシーンを切り捨てることを「ヨブの悲劇の瞬間」と呼んでいるそうです。
 ヨブは善人で働きもので、神の意向にしたがって何でもしている。なのに神はヨブにばかり試練を与える。神様どうして私なの? そうだよねぇ、神様っていつもそうだよね、私のどこがいけなかったの? 隣の悪人には罰とか与えないのに、なぜ、なぜ、なぜ?
 みたいな感じ(最後のほうはちょっとヤンデレみたいに創作しました)。
 この本のインタビューしている作家は、彼のことを「映画界にあって真の変人である」と言っています。
 で、ウォルター・マーチの映画以外の業績としては、イタリア人ジャーナリスト&作家で建築家としてのほうが今は著名なクルツィオ・マラパルテの翻訳です(マラパルテ邸というのはウィキペディアに載っています)。
 彼がこの人の著作を知ることができたのは、映画『存在の耐えられない軽さ』(1987年)の、プラハ軍事介入シーンの撮影でリヨンにいたとき(ちなみに彼自身はそのシーンを自己ベストとして挙げています)、読む本がなくなって現地の書店で宇宙論の本を買ったのがきっかけでした。
 その本の中で著者はビッグバン直後の宇宙の状態について「この瞬間について私なりに描写できないわけではないけれど、それよりもマラパルテの書いたラドガ湖の凍結した馬たちのストーリーを読んだほうがずっとわかりやすいだろう」と書いてあったそうです。
 ラドガ湖の凍結した馬。すごい面白そうでしょ。
 で、そのことについて書いてあるのは『壊れたヨーロッパ』という本で、1990年に翻訳が晶文社から出ています。
 もう少し知りたい人は、「AztecCaba」というブログの2005年1月31日、「クルツィオ・マラパルテ」という記事を見るといいのです。

世界最初の映画『工場の出口』(1895年)に見られる物語

 リュミエール兄弟によって1895年12月28日製作・公開された映画『工場の出口』は、世界最初の現代みたいな映画の起源ということになっています(そこらへん話すと長くなるのでざっくり省略)。
 その映画は現在3つのバージョンが確認されており、そのどれもが50秒ほどのもので、工場から仕事が終わって出てくる人たち(主に女性)が写されています。
 ただそれだけのものなのですが、つい何度も見てしまうのは、出ている人たちが、多分アドリブで演技していて、その演技の背後に物語を感じてしまうからなんですね。
 いちばん大きなモノとしての物語は、馬車なんですが、それ以外にも、手前から奥に(出てくる人たちとは逆に)走る子供、しょっちゅううろちょろする犬、自転車によいしょって感じで乗る男、それとは別の自転車の先払いをする男、などなど、飽きないんだよなあ。3つのバージョン全部まとめて見ても3分もかかりません。
 その中で一番興味深いのは、馬車が出てこないバージョンの最後のところ。
 みんな出終わって、門を閉めようとしているところに、あわてて戻っていく男。
 この男だけは映画の撮影時点で、こういう風に動いて、と監督から指示があったとしか思えないんだなあ。すみません、この件に関しては映画史的なものをもっとよく読んでみて、はっきりしたことがわかったらまた書くかもしれない。

2作目の小説のほう、4万字ぐらい書いたんだけど、まだ1日めが終わらない

 これは一週間(7日間)の話になる予定なので、いまの調子だと30万字ぐらいになってしまう。
 心はもうスティーブン・キング状態。
 ただし執筆速度はスティーブン・キングほどじゃない。
 だいたい、パソコンの画面で一画面ぐらいテキスト入力しています。
 ブログはしょっちゅうサボってるけど、小説(物語)は毎日書いている。やっぱぼくの場合は夜中に書いたほうが断然いいや。
 プロットのほうは木曜日までだいたい決まってるし、結末も先に書いてあるんだけど、金・土・日曜日のことはほぼ何も決まっていない。まあなんとかなるだろう。

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アニメ『シュガー・ラッシュ』(2012年)のヴァネロペ・フォン・シュウィーツちゃん(9歳)が萌え死ぬほどかわいい

 なんだよこのかわいいの。販促、じゃなくて反則だろ。
 主人公ラルフの口真似するヴァネロペたん。
 へんてこな、だけど本物のカートが作れて「やったやったーっ」って飛び跳ねて喜ぶヴァネロペたん。
 あっ、いろいろ話すとネタバレになりそうなので、他の萌え場面はざっくり飛ばす。
 絵が描ける人なら、ヴァネロペたんみたいなのが出てくる漫画を描くだろう(そのままだと盗作になっちゃいますからね)。
 音が作れる人なら、ヴァネロペたんのための音楽を作るだろう。
 ぼくにはテキストしか作れないので、ヴァネロペたんみたいなキャラが出てくる物語を考えることしかできない。