砂手紙のなりゆきブログ

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木下惠介(木下恵介)と黒澤明(黒沢明)(化物語)

 ネットでリアルタイム検索するときに注意しなければいけない筆頭が「木下惠介」という映画監督です。この監督は、今は「木下惠介」と表記するのが普通ですが、一時期は「木下恵介」と「惠」の字が違う表記のものが存在していました。テレビ放映のシリーズは、そんなわけで「木下恵介アワー」と表記するのが正しいようです。
 でもって、いつごろからいつごろまで、映画監督の名前として「恵」の字が使われていたか、を調べようと思ったら、これが思ったより全然大変なのにたまげました。
 まず、簡単なほうで、黒澤明黒澤明)について言及します。
 この人は映画監督の名前としては一度も「黒沢明」の名前では字幕に出ていません。『悪い奴ほどよく眠る』より、「黒澤プロダクション」という自前のプロダクションで映画製作をしていますが、実は『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)から『赤ひげ』(1965年)までは、その表記は「黒沢プロダクション」なんです。
どですかでん』(1970年)は「四騎の会」の製作なんですが、そこに出てくる名前の名前表記は「黒澤明」と「木下恵介」。
『影武者』以降の4作は「黒澤プロダクション」表記です。『デルス・ウザーラ』と『乱』はご存知のとおり黒澤プロダクション製作ではありません。
 ということで、肝心の「木下惠介」「木下恵介」表記の話をします。
 しかし、いくらなんでもそれだけのために、冒頭とはいえ全部の映画を見るのは大変すぎるので、1950年代はざっくり省いて、1960年代からのものにします。
『春の夢』(1960年)…恵介
 いきなり「恵介」なんで、少し前のほうを見ます。
『今日もまたかくてありなん』(1959年)…惠介
『惜春鳥』(1959年)…惠介
 もう多分、1950年代は「惠介」表記だったんだ、と思うことにして、1960年代を探ります。
『永遠の人』(1961年)…惠介
『今年の恋』(1962年)…たぶん惠介。これがものすごくわかりにくいんです。「恵」の字の上の「田」の部分からちょっとはみ出してるんだけど、「惠」という字にはなってない
『二人で歩いた幾春秋』(1962年)…惠介
『歌え若人達』(1963年)…これがですね、「製作」は「木下恵介(&白井昌夫)」で、「監督」は「木下惠介」という、ある種とんでもないことになってます。
『死闘の伝説』(1963年)…恵介
香華』(1964年)…恵介
 ところが、
『なつかしき笛や太鼓』(1967年)…ここでは「木下惠介プロダクション」になってて、監督名は惠介
『スリランカの愛と別れ』(1976年)…恵介
 まぁ普通の人はここらへんでもう、惠介だろうが恵介だろうがどうでもよくなります。
『衝動殺人 息子よ』(1979年)…惠介
 で、以降は「惠介」表記です。
 要するに、なんだか知らないけど1960年代は「澤」じゃなくて「澤」、「惠」じゃなくて「恵」という字を使うようなことが、一時的にあって、それの混在が21世紀の人間にはすげぇ面倒くさい、という解釈をしておきます。
 長嶋茂雄が「長島」だったり、三島由紀夫が新潮文庫で旧かなじゃなくて新かなづかいで出てたりしたのもこの時代だったかな。小説のかなづかいに関してはもう慣れました(諦めました)が、人名を含む固有名詞まで変えてた時代ってのはなんか不思議です。
 タイトルは、今まで一度も「沢」という字で書かれたことのない花澤香菜さんが声をやっているアニメに由来しています。他のでもいいんですけどね。