ぼくが見たいのは映画の話ではなくどういう角度から撮るかという演出
3人の悪者(詐欺師)がいます。男性がふたりで女性がひとり。
女性がコーヒーを入れてカウンターのところにふたつ置きます。
コーヒーがアップになるとその奥のドアが開いて、男Aが入ってきて言います。
「次の獲物が見つかりましたよ。利権で儲けている現役代議士です」
と、言いながら、男Aはコーヒーを飲み(ここでカメラはウエストショットになり)、もうひとつのコーヒーを皿とともに手に持って右から左に歩きます。それにあわせてカメラが移動すると、奥のソファに男Bがいて、このようなことを言います。
「そいつはいいな。どうせ相手も悪いことをやって手に入れた金だ」
男Aは男Bが座っている向かいのソファまで行き、カメラは男Bに近づき、その前のテーブルにコーヒーが置かれ、男Bは段取りについて話しながら、コーヒーを口にします。
「それはいい考えですね、Bさん」と男Aは言い、男Bから見た視点になります。
でもって、ここまでが全部ワンカット。カメラの切り返しという安い手を使わない。
こういうことが可能になるためには、段取り(リハーサル)と、カメラのライン(動線)および照明の緻密な計算が必要になります。
そういうのがめちゃくちゃうまかった(悪く言えば素人にもわかる技巧に走っていた)人としては、スタンリー・キューブリックが知られていますが、ぼくが例に挙げたのとほぼ同じ映像はテレビドラマ『借王<シャッキング>-銭の達人-』(2009年)で見ることができます。監督の名前は香月秀之という人です。
2006年に作られた、2017年設定のアニメ(LEMON ANGEL PROJECT)
アニメ『LEMON ANGEL PROJECT』は、2006年1月から3月に放映された、2017年11月にデビューするという設定になっている6人のアイドルグループを描いた話です。その時代に考えられた未来なので、今となってはごく普通のものに思われているものが存在しない、もしくは一般的になっていないのが面白いうえ、なんか今見ると『アイドルマスター シンデレラガールズ』(2015年)のメタ解釈みたいに思える不思議なアニメです。OPで階段登るし。
その時代に何がほぼなかったかというと、こんな感じ。
・YouTube(2005年2月15日に細々と開業)
・AKB48(2005年12月8日に誕生で、あることはあった)
・アニメのほうの涼宮ハルヒ(『涼宮ハルヒの憂鬱』が2006年4月から7月に放映)
・ニコニコ動画(2006年12月12日に設立)
・iPhone(2007年1月9日に初代発表。日本発売は2008年7月11日)
・初音ミク(2007年8月31日発売)
要するに、素人や二次元が歌って踊ったりするのを発表する場と道具がなかった。スマホもタブレットもほぼなかったんだけど、アニメの中では壁に固定のテレビ電話はある。携帯端末は折りたたみ。
このアニメも歌ったりはするんだけど、今となっては当たり前のフォーメーション・チェンジをCGで見せる、なんてことはない。ただし作中曲はけっこういいです。「エボリューション」とかね。
ちなみにゲームの『THE IDOLM@STER』は2005年7月26日にすでにあって、『LEMON ANGEL PROJECT』の登場人物の一人の名前が結城早夜(旧芸名は星井やよい)で、性格は全然違うけど高槻やよいに似た外見で、さらに仙堂春香っていう名前のオーディションに落ちる子がいるのは、もうこのアニメ放映時点で何かのメタ構造になっているんだろうか、とも思った。
こういう、CDでメジャーデビュー&渋谷の交差点のでかい街頭ビジョン(デジタルサイネージ)で広告&うさんくさいプロデューサーというのはいつごろまで普通の文化だったんだろうなあ。最近だと映画『カノジョは嘘を愛しすぎてる』が2013年の設定になっているけど、漫画の原作は2009年からなんで、どうも感覚がわからない。
アニメ&漫画のほうの『NANA』は、バンドのBLACK STONESが紅白に出たという設定になってるのは2001年なんで、まあこれくらいの近過去ならわからなくもないですな。
なぜ吉本隆明が昔の全共闘系若者に支持されたかを考える呉智英の説
呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(2016年、ちくま文庫)は、吉本隆明のテキストを21世紀的に解釈するためのわかりやすい読み物になっています。要するに、なぜ1960年代当時の、主に全共闘世代に支持されたかについての想像を助ける手がかりになります。
呉智英によると、共産主義的思想には原理主義と修正主義があって、前者はトロツキーの世界革命思想に基づく非現実的な考え(それは、日本共産党自らが修正主義ということになってしまうので、日本共産党は「極左冒険主義のトロツキスト集団」と呼ぶことにしました)、後者はスターリンの共産主義国家防衛の現実的な考えで、吉本隆明は当時の日本共産党も転向者(政治的に考えて思想を変えた人)も許さなかったので、前者を支持することになり、前者を支持していた全共闘の人たちにも支持されました。
呉智英は「極左冒険主義」じゃなくて「左翼日和見主義」って言葉を使ってるけど、そこらへんはまあ、比較的どうでもいい。
もう一つは、「関係の絶対性」という、吉本隆明ならではの造語によるイメージ作りで、これは「関係の客観性」、つまり政治的判断を是とする考えになり、それはトロツキー的思想と実は反します。
それらを結びつけるために、吉本隆明が適当に考えたのが(多分)一般大衆の、彼自身を基準にした原理主義です。つまり、曖昧な基準に基づく大衆は常に正しく、共産主義的思想の原理主義は常に正しい。
ここらへんは呉智英のテキストに関する誤解釈はあるかもしれませんが、要するに当時の日本共産党の現実主義的(修正主義的)姿勢を是としない人たちが、当時の日本の左翼の中にはそれなりに、目立つ程度にはいた、ということです。吉本隆明が何言ってるのかわからないのに(テキストの詩的表現にうっとりはするんですが)。
あと、呉智英のこの本でわかったことは、宮本顕治が戦前獄中にぶち込まれていたのは共産主義的思想を貫き通して、治安維持法に抗ったためではなく(というより、だけではなく)、日本共産党スパイ査問事件、つまりリンチによる「監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反」のために有罪判決があったせいで、吉本隆明の非転向者に関する批判が、今となっては意味のないものになっている、ということです。ただ、そういうのは1960年代には公には語られなかった。
それから、『言語にとって美とは何か』(1965年)が、スターリンの「マルクス主義と言語学の諸問題」(1950年)と関連づけて語られなければいけない、ということです。
呉智英は以下のように、(田中克彦のテキストをふまえて)述べています。p202
『どこかの国の大統領や首相が、外交や経済問題ならともかく、言語学についての論文を発表するなんてことが、通常考えられるだろうか。』
批判の対象物が忘れられて、批判だけが残っている例は古今東西けっこうあると思います。
吉本隆明とは何だったのか(吉本隆明という「共同幻想」)
呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』(2016年、ちくま文庫)は、1960年代から1980年代にかけて、大変もてはやされた吉本隆明という評論家について、21世紀的な知見をもってぶった切っている痛快苦虫系の本です。
吉本隆明に関しては、吉本ばななのお父さんであり、別にお笑い芸人ではなく、柄本明に似ている人、ぐらいな印象しかないんですが、あ、あと「浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦は「知の三馬鹿」」ってのもあったか、呉智英が引用しているテキストを読む限りでは、このようなハッタリが1970年代ぐらいまでは非常に有効だったんだろうな、と思います。
呉智英は吉本隆明「マチウ書試論」について、なんでマタイ伝と書かないのかと怒りながら、吉本隆明のテキストを引用し、リライトしています。p32-33
(吉本隆明の原文)
『マチウ書の作者は、メシヤ・ジェジュをヘブライ聖書のなかのたくさんの予約から、つくりあげている。この予約は、もともと予約としてあったわけではなく、作者がヘブライ聖書を予約としてひきしぼることによって、原始キリスト教の象徴的な教祖であるメシヤ・ジェジュの人物をつくりあげたと考えることができる。』
確かに何を言ってるかさっぱりわからない。「マチウ書」「メシヤ・ジェジュ」「ヘブライ聖書」「予約」「予約としてひきしぼる」と、どう読んでも造語と歪んだ経文のテキストにしか思えないですな。
それはつまり、こういうことです。
(呉智英によるリライト)
『新約聖書マタイ伝の著者は、救世主イエスを旧約聖書の中のたくさんの予言から、作り上げている。この予言は、もともと予言としてあったわけではなく、著者が旧約聖書を予言の書としてそこから強引に抽出することによって、原始キリスト教の象徴的な教祖である救世主イエスの人物像を作り上げたと考えることができる。』
なるほど。
こういった造語癖について、呉智英は「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」で、以下のように述べています。p269
『吉本隆明のこうした造語癖は、小林秀雄のような衒学的な難解文趣味とは、似ていながら違っている。本文で私は、吉本は「天然」だと書いた。つまり巧んでない。しかし、「天然」は「病気」のすぐ手前である。病気は仮病でない限り、巧んでいない。吉本は天然どころか病気の領域に入っている可能性がある。そこが天然よりなお一層、信者を惹きつける。』
こんなテキストは、さすがに吉本隆明が生きてるときには公にできなかったんだろうなあ。
この本の単行本での刊行は2012年12月、ちくま書房からですが、吉本隆明が亡くなったのは2012年3月です。
また、「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」は文庫用の新稿だそうです。
校正とは別の面倒くささを山本弘『翼を持つ少女』(創元推理文庫)で考える
山本弘『翼を持つ少女 上』(2016年4月28日発行)は、冒頭に「ビブリオバトル公式ルール」の「ルールの補足」として、以下のようなテキストがあります。
『4 全発表参加者に紹介された本の中で「どの本を一番読みたくなったか?」を基準に参加者全員で投票を行い最多票を集めたものを『チャンプ本』として決定する。』
2016年11月の時点での、「ビブリオバトル公式ルール」の「公式ルールの詳細」は、以下のようになっています。
『4 全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員一票で行い,最多票を集めたものを『チャンプ本』とする.』
ずいぶん違います。
さらに「ルールの補足」ではなく「公式ルールの詳細」になっています。
実は、公式ルールは以下の通り改訂されています。
改訂 2014年11月7日(理事会決議)※ルールの補足のみ
改訂 2015年1月17日(理事会決議)※ルールの補足のみ
改訂 2016年2月21日(文言修正)※ルールの補足のみ
改訂 2016年8月8日(理事会決議)※ルールの補足を公式ルールの詳細と改称
どの部分がどう改訂されているのかは、法律の文章じゃないのでよくわからない。
ぼくに想像できるのは、かつて「全発表参加者に紹介された本の中で」云々のテキストが存在し、小説の中では多分それが正しいテキストだったんだろうなあ、ということです。
これに関しては、以下の方法があります。
「ビブリオバトルのルール」に関するテキストは、○年○月○日のものに準拠してます」とあとがきで注記として明記する
まあ実は山本弘のこのシリーズは、今より少し前(2014年)の話なので、現在の公式のルールがどうであろうと特に問題はないのです。
ただ、そうするとたとえば、「2014年9月6日」の天気・気温が気になるわけです。
小説『BISビブリオバトル部 君の知らない方程式』の、ネットのテキストの中ではこう書かれています。
『九月の太陽の下、緑の芝生に覆われ、抽象的な銀色のモニュメントがそそり立つ広い敷地を、俺たちは黙々と横切って行った。すでに季節は秋だが、空気にはまだ夏の熱気がかすかに漂っている。』
当日の天気と温度に関しては、tenki.jpのサイトでは以下のように書かれています。
『九州から関東に前線が延び、広く大気の状態が不安定に。九州から近畿は昼過ぎから雨雲が発達。滋賀県甲賀市付近で約100ミリの記録的短時間大雨。東海と関東も夕方から所々で激しい雨。真夏日地点は308と2週間ぶりに300地点超え。東京都心は6日朝にかけて久々に熱帯夜。』『最高気温31.1℃ 最低気温26.1℃』
このことから考えると、登場人物たちは、「はっきりしない天気の下」「空気には昨夜の熱帯夜の余韻が残っている」みたいな感じなんでしょうが…そんなの気にするのは東京創元社の校正・校閲者とぼくぐらいなものです。
自分の倍の年の人の考えはわからないし、半分の年の人の考えは忘れている(機動戦士ガンダム)
たとえば、あなたが小説を書いているとして、30歳だったとしましょう。
物語の中に60歳の人を出そうと思っても、多分うまく書けない。既成のテンプレートをなんとかして、想像で補うしかないので、どうもその内面まではきっちり書けないはず。
逆に15歳の人を出そうと思うと、それがもう、自分では経験あるんだけど、その時どんな感情で人と接していたか、さっぱり思い出せないんだよなあ。
これが、40歳と20歳の人なら、多分うまく書けるかもしれない。
機動戦士ガンダム(ファースト)が放映されたのは1979年で、その時富野由悠季は38歳。なんか微妙な年齢だなあ。
もちろん、今の富野由悠季に若者なんか書けるわけがない。
自分が若者だったときのことを、偽造記憶でなんとか作り込みながら書いてるだけ。
高校生の若者には、40代ぐらいの父母と70代ぐらいの祖父母がいることに、多分なると思うんだけど、ライトノベルの作者は、父母はともかく、祖父母まではうまく書けないんじゃないかと思う。