砂手紙のなりゆきブログ

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映画『この世界の片隅に』(2016年)で残念なところ

(以下ネタバラあるので注意)
 劇場公開のアニメ『この世界の片隅に』(2016年)は、広島で生まれ呉に嫁いだ、平凡で少しトロいけど絵を描くのが大好きな女性・浦野すず(嫁いだ後は北條すず)の、戦前から戦後にかけての、どんどんつらくなるけど最後には少し光が見える話です。
 死や喪失は暗示的にしか語られないし、呉の対空射撃や燃える町や沈められた軍艦は泣けるほど美しいので、防空壕で受ける空襲や路上での戦闘機からの機銃掃射は余計にすげぇ怖い。
 さらに、広島に原爆が落とされたときの、呉に住む主人公たちが「一体何が起きたんだ!」という感じ(この、家がガタガタと揺れて、西のほうに巨大な雲が浮かんで、ラジオ放送が何も伝えない、という感じは、東日本大震災の被災地から離れたところに住んでいた人のリアルにも通じるものがあります)とか、終戦の天皇陛下のラジオを聞いて「おれたちはまだ戦える!」と立ち上がって怒る主人公とか、実に気持ちが、澄んだ水の中の水晶のかけらのように伝わります。
 この映画で思い出したものはふたつあります。
 ひとつは、やはり絵が好きな少女・梶原空(平和な日本の片田舎に住んでます)とその所属する美術部を扱った『スケッチブック ~full color's~』(2007年)です。
 もうひとつは、イラク戦争で名を馳せたアメリカ人のスナイパー(狙撃手)を主人公にしたクリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』(2015年)です。
 特に『アメリカン・スナイパー』は、劇伴の使われかた、というかむしろ、使われていない感じが実に思い出されます。気分を盛り上げたり盛り下げたりする音楽の使いかたじゃないんだよね。あと、戦争とは何か、みたいなことについて考えさせられるところ。問題は、この映画におけるイラク人のことを考えたら、戦争中の日本人なんてまだマシかも、ぐらいに思えてしまうところ。米兵と口を聞いたら片手を同国人に切り落とされ、強制移住の言うことを聞かなかったら米兵に射殺されるんだから(ここらへんはちょっと話を盛ってます)。
 で、『この世界の片隅に』で残念なのはエンドロールで語られる、薄幸な少女・白木リンと浦野すずの物語。
 このふたりに関しては、まどほむと同じぐらいの勢いでリンすずの薄い本が出てもおかしくないぐらいなんだけど、監督はそれ全部プロデューサーの指示で削って、すずが作った(描いた)物語、という扱いにしてしまいました。
 それだと、本編の物語の濃さが弱まって、「これは物語です」という、全体の嘘の密度が濃くなるんですよね、って、ここらへんはうまくぼくの言いたいことがわかるかどうか不明ですが。要するに、「いい話だけど、やっぱお話だよね」って感じになる。
 幸いなことに、けっこう映画の興行収入が悪くないんで、エンドロールの物語も、ちゃんとした物語として(物語の中の物語じゃなくて)作られる可能性が高いようです。

「君の名は。」と聞かれても、友達であればあるほど本当の名前を教えられない未来

 現在執筆中の小説は近未来(だいたい十年以内の未来)の学園ラブコメですが、そこでは現在の状況を加味して、以下のような恐怖の未来を想定しています。

・校内にはいたるところに監視カメラ(防犯カメラ)がある
・校内では生徒の携帯端末による撮影は一切禁止
・クラスメートには本名(真名)ではなく、ハンドル(偽名)しか使わせない。それも「トモさん」「ケイト」とかいったような、検索しにくいような偽名が奨励される
・親しい友達同士であればあるほど、お互いの相手の本名(真名)と住所を知らない

 この世界では、友達を作らないのが当たり前ということになっています。作るのは仲間で、知ってるのはハンドルとメールアドレスだけ。
 相手の距離が近すぎる(友情が濃すぎる)と、敵に回った場合は社会的に殺される、というのは、リベンジポルノという語が現在すでにもう定着しているぐらいなので、近未来では当然のことになります。
 こんな世界でのラブストーリーでは、お互いが元カノ・元カレになったらどうなるのか。
 自分の真名を絶対に教えてはいけない、という世界は、『ゲド戦記』みたいなもんですかね。

kakuyomu.jp

文庫本一冊ぐらいの長さの小説を一つ仕上げるのにかかる時間は180時間ぐらい

 どうも、秋アニメ(という設定)の話はうまく行かないので、それと関係する別の話を書きはじめました。要するに冬アニメ(という設定)。1作目は春のそよ風を感じながら書いた春アニメ、2作目はなかなか眠れない夜の暑さの下で書いた夏アニメで、これが3作目の予定。

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 前の話がなぜうまく行かなかったかというと、話の説明部分を省略して、コードウェイナー・スミスみたいに書きたかったからで、とりあえず400年分の歴史と数百語の用語集を作ったけど、どうしようかと思ってしまうのです。
 今まで作った話は、だいたい3か月、毎日実質2時間ぐらいかけて(本当はダラダラと検索したり資料本を読んだりしてます)、90話ぐらいだから、みっちり詰めて本気で書けば180時間、10日ぐらいで文庫本一冊楽勝だぜ、ははは、と、くだらない計算をしてみる。
 物語を書くことは、自分の命の一部を削って、人の命の一部(読書時間)を奪うことです。
 ぼくが作った物語を、読者が2時間で読むとするなら、ぼくの物語の読者は90人いれば多分いい、ということになります。

ぼくが見たいのは映画の話ではなくどういう角度から撮るかという演出

 3人の悪者(詐欺師)がいます。男性がふたりで女性がひとり。
 女性がコーヒーを入れてカウンターのところにふたつ置きます。
 コーヒーがアップになるとその奥のドアが開いて、男Aが入ってきて言います。
「次の獲物が見つかりましたよ。利権で儲けている現役代議士です」
 と、言いながら、男Aはコーヒーを飲み(ここでカメラはウエストショットになり)、もうひとつのコーヒーを皿とともに手に持って右から左に歩きます。それにあわせてカメラが移動すると、奥のソファに男Bがいて、このようなことを言います。
「そいつはいいな。どうせ相手も悪いことをやって手に入れた金だ」
 男Aは男Bが座っている向かいのソファまで行き、カメラは男Bに近づき、その前のテーブルにコーヒーが置かれ、男Bは段取りについて話しながら、コーヒーを口にします。
「それはいい考えですね、Bさん」と男Aは言い、男Bから見た視点になります。
 でもって、ここまでが全部ワンカット。カメラの切り返しという安い手を使わない。
 こういうことが可能になるためには、段取り(リハーサル)と、カメラのライン(動線)および照明の緻密な計算が必要になります。
 そういうのがめちゃくちゃうまかった(悪く言えば素人にもわかる技巧に走っていた)人としては、スタンリー・キューブリックが知られていますが、ぼくが例に挙げたのとほぼ同じ映像はテレビドラマ『借王<シャッキング>-銭の達人-』(2009年)で見ることができます。監督の名前は香月秀之という人です。

2006年に作られた、2017年設定のアニメ(LEMON ANGEL PROJECT)

 アニメ『LEMON ANGEL PROJECT』は、2006年1月から3月に放映された、2017年11月にデビューするという設定になっている6人のアイドルグループを描いた話です。その時代に考えられた未来なので、今となってはごく普通のものに思われているものが存在しない、もしくは一般的になっていないのが面白いうえ、なんか今見ると『アイドルマスター シンデレラガールズ』(2015年)のメタ解釈みたいに思える不思議なアニメです。OPで階段登るし。
 その時代に何がほぼなかったかというと、こんな感じ。
YouTube(2005年2月15日に細々と開業)
AKB48(2005年12月8日に誕生で、あることはあった)
・アニメのほうの涼宮ハルヒ(『涼宮ハルヒの憂鬱』が2006年4月から7月に放映)
ニコニコ動画(2006年12月12日に設立)
iPhone(2007年1月9日に初代発表。日本発売は2008年7月11日)
初音ミク(2007年8月31日発売)
 要するに、素人や二次元が歌って踊ったりするのを発表する場と道具がなかった。スマホタブレットもほぼなかったんだけど、アニメの中では壁に固定のテレビ電話はある。携帯端末は折りたたみ。
 このアニメも歌ったりはするんだけど、今となっては当たり前のフォーメーション・チェンジをCGで見せる、なんてことはない。ただし作中曲はけっこういいです。「エボリューション」とかね。
 ちなみにゲームの『THE IDOLM@STER』は2005年7月26日にすでにあって、『LEMON ANGEL PROJECT』の登場人物の一人の名前が結城早夜(旧芸名は星井やよい)で、性格は全然違うけど高槻やよいに似た外見で、さらに仙堂春香っていう名前のオーディションに落ちる子がいるのは、もうこのアニメ放映時点で何かのメタ構造になっているんだろうか、とも思った。
 こういう、CDでメジャーデビュー&渋谷の交差点のでかい街頭ビジョン(デジタルサイネージ)で広告&うさんくさいプロデューサーというのはいつごろまで普通の文化だったんだろうなあ。最近だと映画『カノジョは嘘を愛しすぎてる』が2013年の設定になっているけど、漫画の原作は2009年からなんで、どうも感覚がわからない。
 アニメ&漫画のほうの『NANA』は、バンドのBLACK STONESが紅白に出たという設定になってるのは2001年なんで、まあこれくらいの近過去ならわからなくもないですな。

なぜ吉本隆明が昔の全共闘系若者に支持されたかを考える呉智英の説

 呉智英吉本隆明という「共同幻想」』(2016年、ちくま文庫)は、吉本隆明のテキストを21世紀的に解釈するためのわかりやすい読み物になっています。要するに、なぜ1960年代当時の、主に全共闘世代に支持されたかについての想像を助ける手がかりになります。
 呉智英によると、共産主義的思想には原理主義と修正主義があって、前者はトロツキーの世界革命思想に基づく非現実的な考え(それは、日本共産党自らが修正主義ということになってしまうので、日本共産党は「極左冒険主義のトロツキスト集団」と呼ぶことにしました)、後者はスターリン共産主義国家防衛の現実的な考えで、吉本隆明は当時の日本共産党も転向者(政治的に考えて思想を変えた人)も許さなかったので、前者を支持することになり、前者を支持していた全共闘の人たちにも支持されました。
 呉智英は「極左冒険主義」じゃなくて「左翼日和見主義」って言葉を使ってるけど、そこらへんはまあ、比較的どうでもいい。
 もう一つは、「関係の絶対性」という、吉本隆明ならではの造語によるイメージ作りで、これは「関係の客観性」、つまり政治的判断を是とする考えになり、それはトロツキー的思想と実は反します。
 それらを結びつけるために、吉本隆明が適当に考えたのが(多分)一般大衆の、彼自身を基準にした原理主義です。つまり、曖昧な基準に基づく大衆は常に正しく、共産主義的思想の原理主義は常に正しい。
 ここらへんは呉智英のテキストに関する誤解釈はあるかもしれませんが、要するに当時の日本共産党の現実主義的(修正主義的)姿勢を是としない人たちが、当時の日本の左翼の中にはそれなりに、目立つ程度にはいた、ということです。吉本隆明が何言ってるのかわからないのに(テキストの詩的表現にうっとりはするんですが)。
 あと、呉智英のこの本でわかったことは、宮本顕治が戦前獄中にぶち込まれていたのは共産主義的思想を貫き通して、治安維持法に抗ったためではなく(というより、だけではなく)、日本共産党スパイ査問事件、つまりリンチによる「監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反」のために有罪判決があったせいで、吉本隆明の非転向者に関する批判が、今となっては意味のないものになっている、ということです。ただ、そういうのは1960年代には公には語られなかった。
 それから、『言語にとって美とは何か』(1965年)が、スターリンの「マルクス主義言語学の諸問題」(1950年)と関連づけて語られなければいけない、ということです。
 呉智英は以下のように、(田中克彦のテキストをふまえて)述べています。p202

『どこかの国の大統領や首相が、外交や経済問題ならともかく、言語学についての論文を発表するなんてことが、通常考えられるだろうか。』

 批判の対象物が忘れられて、批判だけが残っている例は古今東西けっこうあると思います。

吉本隆明とは何だったのか(吉本隆明という「共同幻想」)

 呉智英吉本隆明という「共同幻想」』(2016年、ちくま文庫)は、1960年代から1980年代にかけて、大変もてはやされた吉本隆明という評論家について、21世紀的な知見をもってぶった切っている痛快苦虫系の本です。
 吉本隆明に関しては、吉本ばななのお父さんであり、別にお笑い芸人ではなく、柄本明に似ている人、ぐらいな印象しかないんですが、あ、あと「浅田彰柄谷行人蓮實重彦は「知の三馬鹿」」ってのもあったか、呉智英が引用しているテキストを読む限りでは、このようなハッタリが1970年代ぐらいまでは非常に有効だったんだろうな、と思います。
 呉智英吉本隆明「マチウ書試論」について、なんでマタイ伝と書かないのかと怒りながら、吉本隆明のテキストを引用し、リライトしています。p32-33

吉本隆明の原文)
『マチウ書の作者は、メシヤ・ジェジュをヘブライ聖書のなかのたくさんの予約から、つくりあげている。この予約は、もともと予約としてあったわけではなく、作者がヘブライ聖書を予約としてひきしぼることによって、原始キリスト教の象徴的な教祖であるメシヤ・ジェジュの人物をつくりあげたと考えることができる。』

 確かに何を言ってるかさっぱりわからない。「マチウ書」「メシヤ・ジェジュ」「ヘブライ聖書」「予約」「予約としてひきしぼる」と、どう読んでも造語と歪んだ経文のテキストにしか思えないですな。
 それはつまり、こういうことです。

呉智英によるリライト)
新約聖書マタイ伝の著者は、救世主イエスを旧約聖書の中のたくさんの予言から、作り上げている。この予言は、もともと予言としてあったわけではなく、著者が旧約聖書を予言の書としてそこから強引に抽出することによって、原始キリスト教の象徴的な教祖である救世主イエスの人物像を作り上げたと考えることができる。』

 なるほど。
 こういった造語癖について、呉智英は「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」で、以下のように述べています。p269

吉本隆明のこうした造語癖は、小林秀雄のような衒学的な難解文趣味とは、似ていながら違っている。本文で私は、吉本は「天然」だと書いた。つまり巧んでない。しかし、「天然」は「病気」のすぐ手前である。病気は仮病でない限り、巧んでいない。吉本は天然どころか病気の領域に入っている可能性がある。そこが天然よりなお一層、信者を惹きつける。』

 こんなテキストは、さすがに吉本隆明が生きてるときには公にできなかったんだろうなあ。
 この本の単行本での刊行は2012年12月、ちくま書房からですが、吉本隆明が亡くなったのは2012年3月です。
 また、「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」は文庫用の新稿だそうです。