砂手紙のなりゆきブログ

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ミステリ編集者までの長い道

 新保博久『ミステリ編集道』(2015年)には、あとがきにあたる鼎談を除くと13人の編集者が出てきます。東京創元社早川書房はともかく、各種出版物を出している大手出版社の中でどうやってミステリーの本を出していったのか(企画を通していったのか)、そもそもどうやってみんなその出版社に入ったかは興味深いところがありました。
 一応13人の入社までの履歴をざっくり書いてみます。

原田裕東都書房
 講談社に入社したのは昭和21(1946年)11月。朝日新聞毎日新聞講談社と受けてどれでも入れたんだけど、朝日は大阪支社の営業で考えて、毎日は弁当を盗まれたのでやめて、講談社はどりこの(というドリンク)と品川巻きをくれたのでそこにした。
・大坪直行(宝石社)
 早稲田の大学院に通いながら講談社のバイトをしていたら、学芸部長が江戸川乱歩に紹介・推薦して、中退して宝石社に入る。
中田雅久久保書店
 昭和25年の3月ごろから、博友社(元・博文館)の仕事を、復員した社員の浅井康男のところにおしかけ編集者として入る。雑誌「新青年」がなくなったら、知り合いのエロライターに久保書店を紹介されてそこに行く。
・八木昇(桃源社
 昭和32年に大学を出て、2年ほど日販(本の取次会社)で働いて父の仕事を継ぐ。埴谷雄高が『信州纐纈城』を褒めていたのに読めなかったので出してみて、そのあと澁澤龍彦の勧めで小栗虫太郎とか出す。
島崎博幻影城
 この人はちょっとよくわからない。三崎書房『えろちか』の編集人だった林宗宏がリバイバルのミステリー雑誌を出すということで、紀田順一郎経由でやとわれ編集者となる。
・白川充(講談社
 昭和34年に明治大学英文学科を卒業後、講談社週刊現代を創刊することになって二次募集をしたので入る。『日本』という雑誌を7年やって、週刊現代に行ったけど、精神的にも肉体的にもボロボロになって文芸第二出版部(エンタテインメント部門)に移る。退社前に大衆文学館という文庫のシリーズを100冊出して、講談社に億単位の赤字を出させる。
佐藤誠一郎(新潮社)
 東大の大学院で国文学を専攻し、1978年当時、給料が良さそうなところを見境なく受けたが、新潮社しか受からなかった。新潮日本古典集成を5年やって、その後はどんな書籍でも作っているうちに1988年新潮ミステリー倶楽部をはじめる。
・北村一男(光文社)
 高卒で光文社に入って総務部の仕事をやる。組合の仕事にはげみすぎて6年7か月干されたあと、選り抜きの社員が集まった光文社の別ビルで働く谷口尚規に誘われてミステリー編集関係の仕事につく。
・山田裕樹(集英社
 早稲田大学政治経済学部を卒業後、某銀行の内定をもらっていたが、しょせん地方の一支店長どまりという自分の未来に絶望して、文芸関係の仕事を目指して10社受けて9社落ちる。1977年4月に集英社に入社した21人のひとりとなり、文芸書の部門に配属されたら集英社文庫の創刊で、それ以来ずっと忙しくなる。
宍戸健司角川書店
 フリーの編集・ライターゴロみたいなことをしていて1985年に角川書店からカドカワトラベルハンドブックというのが出るのにあわせて業務委託という形で潜り込む。その後文芸の仕事をやる。
戸川安宣東京創元社
 立教大学時代にミステリ・クラブを作り、作家や編集者と顔なじみになって、大学院に行くつもりのところを東京創元社の厚木淳にスカウトされる。
・染田屋茂(早川書房
 1973年に大学を卒業するが、大手出版社ばかり狙って受けたので就職が決まらず、単位を残して学研でバイトをする。1974年に試験を受けて早川書房に入る。
・藤原義也(国書刊行会
 東京都立大学を卒業後、国書刊行会が都立大の先生とコネをつけたくてひとり採用するところを選ばれる。

 こうして見ると、みんななるべくしてミステリ関係の本を出すようになった気もしますが、どうなんでしょうね。
 ただ、1980年代から90年代にかけての日本のミステリを作ったのは、なんかもうえらい人に原稿を依頼するのにうんざりした編集者たちが、同世代ぐらいの作家たちに書かせたのかな、なんて気もします。